天和元年(一六八一)十二月十九日、倉内城請取りの上使安藤対馬守(高崎藩主)をはじめとし堀周防守、内藤右近大夫、以下諸役人従者総勢二千三百人、警備にあたる者まで加えると実に六千五百人という物々しさの中に古式に則り城明渡しの儀が行われた。

これで場内各所にいた伊賀守関係の家臣は全部城外へ退出し、替って城請取り役の諸士がそれぞれ入城する。

安藤対馬守は本陣に当てられた鎌倉逢殿の屋敷に入り、内藤右近大夫は本丸、堀周防守は三の丸に以下家来達はそれぞれ町屋に分宿する。

対馬守以下請取り役の適切な配慮によって無事城明渡しが完了し、それに伴う城内外の混乱に対する治安維持もほぼ確保した。

ところが大晦日の夜のことである。江戸幕府から安藤対馬守に対して「沼田城を破却せよ。」との伝達が到着したのは…………。

至上命令であるこの伝達に対して理由立てや、反対陳情などの道は全然許されない。あるものは即時実施という厳しいさの身、このあいだのいきさつについては知るべき全てもないが、敢えて幕府の意向を忖度すれば、外様大名の雄である真田氏に対する憎しみから生まれた徹底的な報復手段と思われる。

本来、幕府開設してより八十年余り、今や中央集権体制全く整った今日、関東地方北辺の要衝が外様大名によって領治されていること自体誠に好ましくない実態といえる。

加えてそれが宿怨積み重なる真田氏であるという事実は、幕府にとって看過し得ぬ重大関心事だ。いうなれば今回の真田氏改易は、当然来るべき幕府の高等政策の実施と見るべきだろう。

従って信直の数々の失政は、幕府にとって渡りに舟の好機会であったのだ。だから改易処分に追討をかけるように「居城破却」の断を下した。

酷といえば酷、厳といえば厳、やがて起る播州赤穂浅野内匠頭の殿中刃傷事件では事件では当人は切腹という重科ながら、城破却までの処置にはいたらなかったのに、沼田の関係のものは一木一石にいたるまで抹殺する幕府の意図は、報復以外の何物でもないと感じる。「今ぞ思い知ったか真田の奴め」と冷笑する将軍綱吉の顔さえ目の前に浮かぶような気がする。

さて話を本筋にかえそう。去る十二月六日沼田城引取りの先発隊が到着してより異様な緊迫感におびえていた城方、町方の者達は正月も真近というのに門松を立てる家は一軒もなかった。

今後の成行に大きな不安は抱きつつも、まさか城を破壊するなどは夢にも思わなかったろう。

平常なら屠蘇気分に浮かれているであろう三日から城取りこわしの作業が始められた。

◉天守閣、石垣塀、大門、三階櫓、大門の橋より南へ二十五間、同じく西へ五十間計七十五間 安藤対馬守

◉*硝矢蔵、大手の柵木、その周辺の掘の埋立 新庄主殿頭

◉広間、書院、居間、料理の間、及び荒町左右の堀、三の門より東へ五十四間、同じく西へ四十一間計九十五間 細川豊前守

◉本丸、台所、奥方ならびに水の手門、同じく土手上の塀、台所前の長屋、お馬出しの土手とその左右の堀、二の門等計六十門 新庄主殿頭

とそれぞれ部署を定め、数千の人夫を督励して昼夜兼行十八日までに城郭のことごとくを破壊してしまった。その間僅かに十五日、容易に倒すことのできぬところは、ろくろ(かぐらさん)まで用いて強引に行ったという。

各建物に保管されてあった武具、弓、鉄砲、馬具、の類はことごとく没収され安中城主板倉伊予守重形に預けられることになり、破壊作業の前六日、七日の両日にわたり荷物百駄の大量を沼田から安中に運んだ。

一、鉄砲 四五〇挺

一、弓 二百三十張

一、長柄鎗 五十筋

一、鉄砲玉 五駄

一、煙硝 七駄

一、矢 数知れず

一、具足 数知れず

一、馬具等 数知れず

というぼう大な数量といわれる。その外小具足、陣笠等は皆掘に埋めてしまった。

また大旗指物、陣羽織、茶室関係の諸品、沼田領内田畑検地帳、切支丹宗門手形入箱等の貴重品は竹村惣左衛門、熊沢武兵衛の両代官の預かりとなる。

城の外、家中の屋敷も同様取りこわしの運命となり、これらの木材は城の木材と共に町民に払下げとなった。

城の近辺は重臣達の屋敷であったが、一般の侍達は現在の柳町西方に軒を並べて居住していた。それが一挙にして荒野原となり民間に払下げとなった。今でもこのあたり一帯を「新畑」と称するのは、当時の名残りである。それでも旧藩主の住居であった城址は、殿様に対するはばかりか払下げに応じる者は一人もなかったという。

旧真田家臣は前号に記述した通りそれぞれ身の振りかたを考えて、いずこともなく立ち去る者、緑故をたよって再仕官をする者、そのまま庶民の群に入り土着する者等で一応は収った。しかしやっと基礎が固まった沼田城下町は一変してしまった。朝に夕べに振り仰ぐ天守閣は今はその姿を見せない。市街地の北部約半分をしめる侍屋敷は取払われ荒廃そのものとなった。

取りこわし作業の行われた十五日間の沼田の町はそれこそ足の踏み入れる場もない程取り荒されていたという。全く想像も許されぬ程の混乱状態に陥ったことだろう。

かくして一切の作業が終った幕府方の手勢は正月二十一日から引揚げが始まり二十九日能勢武左衛門、設楽勘左衛門その他の面々を最後としてすべて立去った。

かつて普請奉行だった梁瀬兵左衛門は、変り果てた白の様子に悲歎と痛恨をこめて

一時に破却す沼田城

塁お崩し隍を埋め百雉平かなり

桜閣殿門忽ち転倒

臣は転客と為り四方に行く

と詠じた。

・隍……堀

・百雉…長いとりで、かきね

・桜閣殿門…きらびやかな御殿や門

・転客……よるべなき身の上

藩主真田氏に対する処置は以上で一切終ったが、問題はその後における領民の生活である。

顧れば延宝八年、天和元年と二年続きの凶作、加えるに重税夫役と苦しめられた百姓達はそれこそ塗炭の苦めをなめ、領内百七十七ヶ村の中実に百三ヶ村は困窮その極に達している。

当時の文書に「飢えに及ぶ………」とあるが、この記載は仇おろそかに看過できない内容を含んでいる。凶作、それによって起る飢饉のおそろしさ、悲惨は前号「農村の生活史」と題する武井新平氏の記述にしめされている通り、今日の私達の食生活からは想像を許さぬ苛酷なものである。

「飢えに及ぶ」次に待っているのは「餓死」だ。

町方にしても同様、消費者の大半をしめる侍達が四散した後、どうして生計が成り立とう。

幕府にしても領民に対する善後策は直ちに講じた。藩主なき後の民政については竹村惣左衛門、熊沢武兵衛の両名を代官に任じ、天和元年十二月には沼田へ派遣する。両代官は旧真田家臣沢平次左衛門より領内の事情を詳細にわたって聴取し、記録させた。これが今日に残る「上野国沼田領品々覚書」である。