土岐氏の略譜

このたび三万五千石の沼田藩主として移封した土岐丹後守頼稔の家系について簡単に触れてみよう。

土岐氏は美濃源氏の一流で、なかなかの名家、あの桔梗の旗で有名な明智光秀、斎藤道三に亡ぼされた土岐頼芸、共に一家の流れを汲む。

沼田藩主初代土岐頼稔は、頼殷の三男として生まれるが、兄二人が早世のため家督を継ぐ。

土岐頼稔の人となり

頼稔は誠に優れた人物で

・元禄八年(一六九五)
土岐伊豫守頼殷の三男として生まれる

・宝永六年(一七〇九)
従五位下丹後守任官 一五才

・正徳三年(一七一三)
父頼殷隠居に伴い駿河国田中城主となる 十九才

・享保十三年(一七二八)
寺社奉行となる 三十五才

・享保十五年(一七三〇)
大阪城代となる 三十七才

・享保十九年(一七三四)
京都所司代となる 四十一才

・寛保二年(一七四二)
老中に任ぜらる 四十九才

・同年
沼田藩主となる

・延亭元年(一七四四)
卒去 五十一才
法名
乾光院殿真厳道如大居士
品川 東海寺春雨庵

頼稔は性謹直、文武に秀いで毅然たる人物で、逸話も少くない。

そのひとつとして伝えられるところに、頼稔が京都所司代に任じられその挨拶に宮中に参内した際の物語がある。

頼稔、天皇に拝謁の際、常の所司代ならば平伏して唯々天皇のお言葉を拝するところ、頼稔は一礼の後はずっと頭をあげしげしげと天皇のお顔を見つめていたという。

新任の挨拶が終り退去する際に、同席に侍していた公卿の一人が、その傲慢無礼な態度をなじったところ頼稔は平然として「身はこの度、京都所司代という大役を仰せつかりました。申すまでもなくこの役は、朝廷公卿のご身辺をはじめ皇城の地京都平安維持という職務です。

その任にある者が、万一非常の際陛下の玉顔がわからぬとあってはとうてい職務遂行はできません。よって本日はつくづくと拝し、肝に銘じました。」と答えたとか。

後に事の次第を聞召された桜町天皇は、殊の外頼稔の覚悟の程をお賞美になり、褒美として「五大尊図」をご下賜になったという。

この「五大尊図」の掛軸は土岐家の家宝となったが、明治維新の際民間の手に渡った。

ところが月岡造酒之丞、青木吉右エ門、唐沢直七の三名がこれを入手し、改めて御嶽教普寛信心講へ譲り渡す。時に明治二月五月のことである。

以来、この軸はいかなる経緯か、上之町いそだや(高橋伊三寿氏)が保管するようになったが、去る昭和四十一年に沼田市役所に移されることになった。

 

 
 
更に頼稔は、沼田城内に「不動院」を建立、又現在西倉内町観光タクシー地先に土岐家中興の祖山城守定政(法名増圓寺殿真庵源空大居士)、先考伊豫守頼殷(法名官成院殿俊岩紹英大居士)をはじめ土岐家関係諸霊供養のため「増円寺」を建てる。この寺はいわば土岐家の菩提寺となるが、明治維新の際廃寺となり、その後の消息は知るべくもない。

その外、現在の東禅寺の場所に、領内安穏祈願のため「勝善寺」を建てた。

不動院(城内)
増円寺(西倉内町)
勝善寺(西倉内町)

これを「土岐家の三ケ寺」という。

なお頼稔についてのエピソードをあげてみよう。

京都所司代のころの話である。頼稔は和歌の道にも心を寄せている関係で公卿等とも親交があった。ある時集った公卿の一人が、平安時代の在原業平のことなど語り出し、果てはその自由奔放な生活を賛美したり、当時の世相をうらやむような言葉を発した。

これを静かに聞いていた頼稔「とんでもないこと、そんな自堕落な人が現在居るなら、どんな身分の人でも直ちに捕まえます。」といったところ、その剛毅な覚悟の前に、一同思わず粛然とし、以来公卿の生活態度が一変したという。

それから当時京都において目にあまるものに比叡山延暦寺の山法師があった。山王の祭ともなると彼等は僧兵の姿に身を固め、神興渡御に名をかりて集団暴行の限りをつくす。その傍若無人の振舞を制止できる者は未だかつて誰もいなかった。当局者の柔弱振がかえって彼等の増長を招いたともいえる。ところが今回の所司代土岐頼稔はこの暴状を看過しなかった断乎禁止令を出し、これに従わぬ者は厳罰に処すと布達したところ山法師の弊風がぴたりと止んだという。何か頼稔という人物に異例の威望を感じたのだろう。このあたりに頼稔という人物の真髄をみる。

以上頼稔の逸話をいくつかならべてみると、何やらこの領主の人となりがそこはかとなく浮んでくる。

剛毅、謹直、果敢、といった性格と共に為政者としての決断力に富む名君の姿が画き出される。丁度それは真田初代領主信幸とイメージが重なってくるともいえよう。

唯惜しむらくはこの人にしても天寿命を与えず、僅か二ケ年余りの治政にして世を去ることである。

頼稔を初代として以来土岐氏は十二代、明治維新まで続くがその中に名君と称せられる人果して幾人か。

つづく