土岐氏の系譜

・斎藤道三に亡ぼされた土岐頼芸、織田信長を殺逆した明智光秀、共に美濃源氏の流れをひく土岐一族である。

・定政

二才の時、母方の実家菅沼定仙のもとに預けられ、菅沼藤蔵と名乗る。

成長の後、徳川家康の麾下に属し数々の戦功を立てる。

天正十二年四月、家康が豊臣秀吉と長久手に戦った節、藤蔵が秀吉方の池田勢と奮戦中かの有名な「勝軍地蔵」の話が生れる。

後に藤蔵山城守に任官し下総国守屋の城主となった際

土岐山城守定政

と改名する。

慶長二年三月三日(一五六七)

四十七才にて卒す

法名

増円寺殿真庵源空大居士

ちなみに定政の室は鳥居元忠の娘である。

・定義

父定政の後を継ぎ守屋一万石の領主

・頼行

寛永五年(一六二八)、出羽国上ノ山城主とななる。二万五千石増円寺建立父祖の霊を祀る。

在職六十三年

・頼殷

正徳三年(一七一三)駿河国田中城主となる。三万五千石同地に増円寺建立兄頼長は病気のため蟄居

・頼稔

略歴本誌第二十四号記載城内に不動院、西倉内町現東禅寺の位置に勝善寺(祈願所)、公園通りに増円寺(位牌所)を建立する。頼稔沼田襲封の際、徳川氏より「勝軍地蔵尊」を祭祀料五千石付にて賜う。勝善寺本尊とする。

勝善寺について

頼稔は、沼田へ着任するや直ちに勝善寺なる一寺を建立し、先祖定政ゆかりの「勝軍地蔵」を祀り、わが家の守護神として厚く信仰したと思われる。

定政が菅沼藤蔵と名乗っていた当時より、戦にあたっていつも奇瑞を現すこの十六cmの石地蔵は徳川氏の守護神として厚く祀られていたのを今回拝領したのであるから頼稔としてもおろそかには出来ない。思えば定政がこの石地蔵の加護を受けてよりすでに百数十年は経過している。その間ずっと将軍家の守護神であったのだ。頼稔の感激振りが目に見えるようである。

はっきりした記録もないので断言はできないが、察するに頼稔は現在東禅寺の在る位置に独立した堂を造営してこの勝軍地蔵を祀り、その側に別当寺として勝善寺を建立したのではあるまいか。

勝善寺建立は寛保三年(一七四三)、頼稔が五十才で亡くなったのもこの年である。名君の誉高かった頼稔の沼田領治はわずかに二年二ヶ月という短期間であった。

勝軍地蔵を祀った本殿はその後四十六年経た土岐六代定富の代に改修築されているが、この時現在本尊となっている愛宕尊を勧請したものかその点定かでない。もともと愛宕尊と勝軍地蔵とは異名同体である。いかにいわれはあろうとも勝軍地蔵そのものの実体は粗雑な石仏である。

そこで京都か、江戸か判明しないが本物の愛宕尊を勧請して壮麗な厨子に収め、勝軍地蔵共々厚く祀ったと見るのが妥当のように思われる。

やがてこの本殿が大改築されるが本題の頼稔とは直接の関係はなくなるのでいささか余談に属する。

土岐九代頼功の時代である。勝善寺十代住職慈豪という僧が勝善寺本堂である愛宕殿の大改修を発願し、独力よく浄財千二百両を集め、土岐氏祈願所として名実共に備った今日見られるあの宮殿造の堂を完成させた。

これは定富時代即ち寛政元年(一七八九)に改修してから三十八年目、今を去ること百五十八年前の文政十年(一八二七)のことである。

愛宕尊及び勝軍地蔵を本尊としたこの宮殿は、独立建物ではあるが勝善寺の本堂でもある。神仏混交時代のこととて寺に鳥居があっても別にきにする必要はない。

さて時代は下り明治となる土岐十二代頼知は明治三年職人手間四千五百人、工費五十三両二分の見積りで改修を測った。その時正面に自ら書した「雨宝殿」の額を揚げた。

「雨宝殿」とは愛宕尊の本体は火の神である「迦具土神」であるところから同じ「伊邪那岐尊」の御子である「天照大神の別名「金剛赤精神雨宝童子」からのいわれからとったものか。

この建物の内部が誠にすばらしい。極彩色の格天井は目を奪うものがある。それと外側を飾る彫刻は正に傑作の一語につきる。

頼知の改修は計画だけに止まり、翌明治四年には沼田藩知事の席を追われ、頼知はゆかりの地沼田を離れて東京へ移るのである。

管理者を失ったこの本殿はやがて民間人の手に移ったものの、その維持管理に手こずったらしい。

たまたま沼田中発知にあった「東禅寺」という寺が火災で焼失し困っていたところ、この勝善寺に着目し、金六百円で建物をはじめ内部の一切を買受けて移住した。時に明治二十六年のことである。