頼稔が沼田へ入部する以前は、八年にわたり京都所司代をつとめて、その名声はきわめて高かった。

寛保二年(一七四二)六月に老中に列せられ、約一ヶ月後の七月に沼田へ移封の内示が発せられた。

現代的にいえば転任と異なり、大名の転任となるとこれは言語を絶する大がかりの騒動である。数百に上る家臣、及びその家族総ぐるみの集団移動は、交通、運輪の不完全時代の当時にあっては想像を絶する困難な事業であったろう。

同時に前領主であった黒田氏の引上げも、これ又どんなにか大騒ぎだったか。城をはじめとして家臣の住宅、家具、武具一切にわたる交代の複雑にして煩瑣な形式、手続きは今日の事務引継の比ではない。

頼稔は命を受けると八月に幕府にお礼言上、それより転封の騒ぎが始まった。

城の請渡は、幕府の役人立会の下に十月二十一日に行うことに決定、この日を期して諸準備は進められた。

幸い当日、何の手落ち、遺漏もなく無事完了、愈々土岐氏の統治が実質的に始まるのであった。

暖い駿河(静岡県)から山深い上州沼田へ転任して来た土岐氏家臣はどんなにかその気候、風土のちがいに驚いたことだろう。十月二十一日といえば今日のこよみでは、十一月にあたる。そろそろ寒気も迫まってくる初冬の時期である。

土岐氏は新しく領土となった利根沼田の実情を知るべく早速各方面の調査が進められた。

その調査をとりまとめた報告書が現在残っている。題して「上州沼田考量」という。

この古文書を見ると、今から二百四十三年前の当地の様子を知り得て甚だ興味深い。

以下いくつかその項目を消化してみよう。(現代文訳)
 
  
 
◯町屋について

一、全体的に宅地が広く、その建物も大きい。そのため町幅や道路まで広く、熊谷、深谷、本庄あたりの様子に似ている。

一、町の入口にあたる木戸は、いかにも田舎風で粗末な造りである。

一、家屋を見ると大、小あるがいずれも表側は粗末な造りで、奥へ入るとなかなか良く出来ている。奥行が深く裕福そうに見える。

一、労働に関しては雇人を使用している家が多い。

一、戸数、町数、町名、男女の人口、職人、商人、細工人、それに商売の品、市日等の様子については奉行で調査してあるため略す。湯屋が無く、女茶屋も無い。

・この項が略してあるので惜しい。最も知りたいところであるが………。

 
 
 
◯人品(住民の人柄)

一、片田舎の割にはいやしくない。大体世間並といえよう。

裕福な者は碁、将棋、俳諧又は茶の湯をたしなむ。

一、十の中、八九分の人は気質が丈夫でたのもしいというがいまだその実態はわからない。これは上州人の特質といえそうだ。

一、子が生まれると間引くと称して殺す風習があるというので、たずねてみたところ昔はあったが今はないという。

しかし事情によっては今も行われているともいう。どうもはっきりはわからない。

一、なにか事があると徒党を組む風習がある。

一、家業については熱心である。

一、仲々信仰心は篤い。性質が実直なる故か。当家の勝軍地蔵のお祭りも町中で盛大にやりたいと申している。

兎や狸は猟するが、妙に狐を恐れることが甚しい。これは稲荷様としての信仰のためか。

一、物事飾らず簡素である。男女共律義者が多い。

争いを好まない。たとえば沼田のことを悪くいう者があってもさからわず「沼田は私一人の沼田ではない。沼田の沼田である。私はこの地に生れてよかった。」と答える。

一、真田公は勿論であるが、本多家を讃えること甚しい。御城、御家中共に立派な政治をしたとみえて領民皆その業績を慕っている。それに比べて黒田家の評判はやや劣る。

一、女は強い。しかしみだらなことは聞かない。唯々よく働くのみである。しかし男に比べて野鄙である。

一、上州の風習なのか、誠に不潔なことが多い。例えば便所へ行っても手を洗わないし、囲炉裏の中へ子供の大小便をさせる。もっともそこの灰は一応取りかたづけるが、同じ場所で食物を煮たり焼いたりするなどのことは他国ではちょっと見られない。

・いくらなんでもこんなことは一般的な風習ではないと思うが、えらいところを観察したものだ。

一、男女とも言葉に多少のなまりがあるけどそれ程は苦にならない。

例えば冷気が強いことを、しみが強いという。

 
 
 
○郷村(近くの村々)

一、土地が広い。これは測量の際、縄に延びがあった為であろう。従って土地台帳に記載してある面積より実際は広くなっている。この点は町場も同様である。

一、村々の間に原野が少い。

一、江戸よりの道については、米野より沼田までは難所である。この間に赤城山という山がありその裾野は富士山のそれのように広々としている。溝呂木の間に二ヶ所原野があるけれど、ここは他領である。しかし、沼田の要害のためには大変好都合というべきか。

一、利根川では筏流しが行われている。

一、総じて畑のはし、田の畔、山際等の少しの土地に桑の木を植えている。

一、寒国というけれどつくしが寒中に多く生えている。麦は他所に比べて多い。

一、霊地とか遊山の地はない。但し春の日、山野楽しみはあると思われる。時には他国より旅芝居、見世物その他見物客も来るという。

一、町、在共に馬が多い。あまり良馬は見られず、小ぶりでしかも雌馬が大部分である。一人で二頭から三頭もひきいて往来する。町にも小荷駄の馬が多く、特に市日には馬が多く集まる。しかし牛は沼田では全く見られない。但し月夜野町の市には時々牛に荷をつけたのが見られるそうだ。

一、町、在共に樹木は多い。多いものに栗、柿、梅、くるみ、少いものは梨子、けんぽ梨、桃、りんご、枇杷、ないものは密柑、きんかん、九年母、柚、外に漆、くるみも多い。

一、町、在共に煙草を作る。多くは江戸へ出荷する。年貢は大方煙草で済す由。

粟、麦、大豆、小豆、えごまが多く、木綿は不作。

茶は少なく、下妻、関宿より来る。その外は他国と変わらない。そらまめは地に合わず不作。なたまめは苗を他処より買求めるが作ってもあまり実は熟さない。是は寒気が早く来るためである。苗を買求めて作るところが他国と異なる。おそらく越後の国も同様であろう。

一、生類の中鳶、鷺、いたちは甚だ少ない。牛も同様である。猪が他国より多いのは山中だからであろう。鹿は近くにはいないが沼田より十二、三町東の片品川までは赤城山から多く来る。このわけはわからない。狐、狸は多いが、てんは他所よりはやや多い程度である。魚は海魚の新鮮なものはなく皆塩漬の干物である。川魚では鱒、鮎は夏の中は多いが沢山という程ではない。鯉、鮒も冬は伊勢崎辺から持ち来る。

右の海魚の塩物は越後の国から大部分は来る。

一、敷物は大方ねこ(わらの敷物)である。もっとも家によっては畳を用いる。町の家は半分位畳を用いている。畳表は不自由で江戸又は高崎より来るが品質が悪くて値段が高い。沼田領で茅萱を織って用いるというがその織所は見たことがない。丹州の江州の畳表に似ていて片側だけ使う粗末なものである。

一、竹が少い。これは先年竹の病気が流行しそのため無くなったというが近年少しずつ出る由、百姓家にわずかながら生えている藪が認められる。

一、材木は他国より値段が安い。昔は非常に安かったが、黒田公の時代大方伐採したため現在は品薄となってしまった。

この事については町人、百姓共に黒田公を非難している。特に桧の如きは入用の節は他国から取りよせるようになってしまった。

一、土地が広いために食物は多いと見える。町、在共に土間に俵物を沢山積み上げて置く。他国より多いと思われる。中に何が入っているのかわからないが、町宅で見る限りは粟、きび、麦、大豆、小豆などが多い。勿論米もあるだろう。