真田氏は信濃名門海野小太郎の末裔で、昌幸の父幸隆は武田信玄に仕え、天文二十二年(一五五二)村上義清を越後に追い落すまで武田の部将として各地に転戦しその勇名を馳せた。

しかし長篠の合戦(天正三年五月織田信長、徳川家康の連合軍と武田勝頼との戦)で幸隆は長子信綱と次子昌輝を失う。そのため三子昌幸があとを継ぐ。

昌幸は、はじめ上田の東北方にある砥石城に住んでいたが、不便な山城であったため千曲川の段丘を利用した平城を上田の地に築いた。

天正十年(一五八二)はきわめて多端な年であった。

この年五月武田勝頼は織田信長に滅され、六月には信長が明智光秀によって非業な最後をとげる。

秀吉中国地方より直ちに引きかえし光秀を討つ

十一月家康甲斐を攻略する。

まことに目まぐるしい程の輿亡変転を繰り返した年である。一方信州は勝頼亡き後滝川一益が信長の命により領主となる。真田昌幸もこれに従う。

更に長男信幸も一益の本城である厩橋城北の守りたるべき沼田の城主となる。

これにより真田氏は信州上田に三万八千石、上州沼田に三万七千石を領するようになったが、徳川家康は北条氏との行きがかりから沼田領二万七千石を北条方に引き渡すよう求めたところ、昌幸はこれをきっぱりと断ってしまった。家康大いに怒り鳥居元忠、大久保忠世ら八千五百人の大軍を信州に向かわせた。

徳川氏と真田氏の確執はこれを第一回とし次第に激しくなってくる。

この戦いにおける昌幸の智謀は巧緻をきわめた。

徳川勢進撃の知らせに対し、真田勢は城の外に討って出ることをせず上田城の大手門は開き放しのままであった。勢いづいた寄手が大手門を突破し、続いて二の丸を攻撃しようと石垣をおぼりはじめると真田の城兵はかねて用意の大木をいっせいに落した。この奇襲にたじろぐ寄手に今度は鉄砲や矢を射かけて一気に追い散らした。

逃げまどう敵の様子を見ると城兵は一気に追撃にかかり圧倒的な勝利を収めた。この戦いで徳川方は千三百人が討死、真田方の死者はわずかに四十七人だったという。正に真田勢の勇名を天下に馳せた一戦であった。家康大いに怒り続いて何回も攻め寄せるが昌幸、信幸、幸村を中心とする上田城は牢固として屈しなかった。さすがの戦功者家康もこれにはいささか手こずったがさりとて和睦もできず、困ったあげくひそかに秀吉に仲裁を依頼するのであった。

秀吉の口入で両者は和議が成立し一応家康の面目を保つことができこれを機として信幸は家康の養女小松姫(本多忠勝の女)を室として迎え、幸村は大家吉継の女を娶り、昌幸は新たに豊臣秀吉に仕える。
 
 

 
 
第二回目の両者の激突はこれから十五年後の慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦の際始まるのである。

この年の六月会津の上杉景勝攻略にあたり家康方についた真田は宇都宮近くまで兵を進めた。

この時石田三成からの密書が昌幸の許に届いた。かねてより恩顧のある豊富方に味方することに覚悟を決めた昌幸と幸村は兵をまとめて居城上田へ帰る。一方信幸は家康との婚姻関係もあることとて父、弟と袂をわかち家康のもとに馳せ参じた。

家康は東海道を西上、秀忠は中仙道を三万六千の兵を率いて同じく西に向う。信幸はこの秀忠の軍に加わった。

やがて秀忠の軍勢は信州小諸に到着した。ところが上田城にこもった昌幸、幸村父子が秀忠勢を妨げる姿勢を見せたので、秀忠の陣中にあった信幸は抵抗しても益がない旨を城中に伝えた。すると昌幸は三日間の猶予が欲しいと申し出たので信幸は引きさがった。が三日の後の城方の返事は開城など思いもよらぬという高姿勢であった。はじめてはかられたと信幸は知った。

実はこの三日間、城中では戦闘の準備を進めていたのであった。今よなってはすべて後の祭り、貴重なる三日間を空費した秀忠軍は猛然と城に攻め寄せた。しかし相手は智将昌幸である。六日間を費やしたが仲々落ちない。先に三日、攻城に六日、合わせて九日間もこの地に足どめされた秀忠軍は地だんだ踏んで口惜しがったがもう遅い。とうとうあきらめて兵をひきあげ急ぎ関ヶ原に向ったがすでに合戦は終わりをつげていた。秀忠が家康の激怒を買ったのはこの時である。同時にわが子秀忠を手玉にとってほんろうした上田の古狸昌幸に対する増悪は火の如く燃えさかった。

やがて関ヶ原の戦は関東方家康の勝利に終った。家康は憎むべき昌幸、幸村父子を打首にしようとしたところ信幸の必死の嘆願によって危く一命を取り止めたものの上田城主の座を奪い九度山に永久蟄居を命じた。昌幸はその後慶長十六年(一六一一)六十五才にして失意のまま九度山で亡くなった。
 
その後幸村は慶長十九年(一六一四)の大阪冬の陣に秀頼に招かれて大阪城入りをし、翌元和元年の夏の陣において家康軍に手強い反抗をしめし多大の損害を与えたものの天王寺付近で壮烈な戦死を遂げている。
 
 
思えば真田氏は徳川氏に対して徹頭徹尾敵対し、手痛い打撃を与えている。従って真田氏は徳川氏にとって倶に天を戴かぬ程の仇敵関係にある間柄であった。それが何とか沼田において社稷を保つことができたのは一にかって信幸の徳川氏に対する忠節にあったのだ。

しかしそれとても家康、信幸の個人的な信頼があったればの話で両者世を去った後は、徳川氏と真田氏の多年にわたる確執と、幕府と外様大名という政略的立場が強く影響してくる。

こんな関係にあっては所詮沼田真田氏はいつの日か抹殺の運命にあうこと火を見るより明らかであるが問題はそのきっかけにある。

更に真田氏の運命により暗いかげを投げかけたのは、将軍継嗣に伴う大老酒井氏の失脚であった。これに関しては既に述べた通りである。

沼田以外史〜越後騒動と真田伊賀守の改易
真田氏沼田藩〜改易の背景
 
 
天和元年(一六八一)終に来るべきものが来た。

そして名門の沼田真田氏は滅亡となる。

以上がその経緯のあらましであるが、約百年になんなんとする長い間燃えくすぶっていた人間の怨讐のすさまじさをまざまざとしめした一大ドラマという感じを受ける。又政治というものの冷酷非情さをひしひしと感じさせる一幕でもある。人がつくった組織、機構、体制がやがては人の運命を左右するようになることを考えさせられる事例ともいえる。

外様大名の廃絶は、豊臣恩顧の福島正則をはじめとし、肥後の加藤氏その他百二十二家の多きにのぼるが、一方、譜代、親藩といえども安閑とはしていられなかった。家康の孫にあたる駿河大納言忠直の場合を見ても宗家の支配権を確立するためには少しも仮借はなかった。

この様に徳川体制を保持するための措置は苛酷なまでに行われたが、やがては時の流れに伴い徳川幕府も終に崩壊の日が来るのである。まこと人の世の有為転変は目まぐるしい程の激しさをしめす。

次号より真田没落の新世について述べよう。(桑原)

*注

「武家諸法度」=元和元年(一六一五)制定、寛永十二年(一六三五)一部改定

「御定書百箇状」=元和元年に「公事方定書」制定、寛政年間に修正する。徳川幕府二百年六十年間法制の基礎となる。

「御遺百箇条」=家康駿府隠居中(慶長十二年七月より天和二年四月までの十ヶ年)記したものと思われる。

実はこの文書を材木町森川宗吉氏よりしめされた時、誠に奇異な感じに打たれた。

というのはたとえ原書でなく写本であっても、この様な記録がいかなる経路で森川氏の家に伝わったものかという点、それに門外不出、他見あるべからずとされている秘本がどうして外部に書き残されたかという点である。

この文書の内容は内政一般にわたり、しかもその条項がきわめて厳しい申し潰しであると同時に、古風を守り、人情の機微にふれる温情を多分にたたえている。いうなれば行政官(老中)の心構え、指針といった性格を備えている名言である。

どなたかこれに対する明確なる解明を与えて下されば幸甚。

沼田万華鏡より