松代領主相続問題はじまる

正に晴天の霹靂、一年前に沼田から松代にきた新城主信政が、こんなに早く亡くなろうとは………。

時を移さず後継者が起った。信政が亡くなったのは二月五日で、その報せは直ちに沼田の城へも伝わった。

訃報に接して沼田では、何やらただならぬざわめきが起こった。

松代十万石の跡目は一体どうなるのか、たしかに信政には右衛門佐という子(後の幸道)があるが、それはいまだ二才という幼児である。幼児相続の問題は沼田ではすでに二回も経験し、苦汁を味っているから、ことによると松代の後継者は伊賀守信澄に白羽の矢が立てられるのではないかという思惑からの動揺である。

伊賀守自身にしても、右衛門佐は二才、しかも妾腹である。とすれば信幸の嫡流である自分が後継者になるのは当然ではないかと考える。とすれば沼田三万五千石から松代十万石の領主へという願いもまんざら夢ではない、しかし徒らに手をこまねいていてはその実現性も危ぶまれる。では………というので直ちに家老鎌原縫殿を江戸に出府させ、ひそかに幕府の要職大老酒井雅楽頭忠清の応援工作を働きかけた。酒井忠清はおのれの妻の縁つづきであるからおそらく無下には断るまいと心頼みにしていた。

一方、当の松代へは家臣中沢主水をつかわし隠居ながらも最大の実力者信幸に働きかけようしたが、信幸の側近玉川右門に一蹴されてしまった。

信幸自身は今回の後継者問題について迷うことなく右衛門佐に決めていたが、幕府の連中がどんな裁断をするか一抹の不安なきにしもあらずという立場であった。

又、松代の家中の人達の中にも沼田びいきがなきにしもあらずといった状態なので、沼田の策動を少なからず憂慮している家臣達は紛争に対処するため、

伊賀守の相続にはあくまで反対

もし容れられぬ場合には亡君のお供をして城を枕に相果てる覚悟

のもとに誓紙血判をして結束を固めた。この連判状に記名した者は足軽小者合せて五百四十八名の多きに達した。

この挙は、城中にいる沼田びいきの者に対する牽制と、老公信幸に決断を迫まるデモンストレーションであった。

衆意が勝つか、政略が勝つか。問題はどうやら幕府の政治問題にまで発展しそうな形勢となった。ここで真田家と酒井家との因縁をとりあげて見よう。

こうして両家の関係を比べて見ると、少なくとも時の権勢者大老酒井忠清の心証は伊賀守の方が抜群によい。そんな事情を裏付するか「松代の後継は伊賀守が適当と思うが、将軍のお考えもあるので………。」などという含みのある言葉が伝わってくる。

いよいよ信澄の期待は大きくふくらむが、松代の方では頑として幼主擁立論を固持している。

さすがの信幸も弱ってしまい、「もしも右衛門佐が城主になれない場合は、わしは孫を連れて京都の方へ引き込む。」などの泣き言をもらす始末、ところが何か幸いするかわからないもので、信政が死期にのぞんで書き残した老中あての遺書が最終決定の段階で大きくクローズアップされた。

この遺書の内容は、右衛門佐相続を依頼したものでなお父信幸の添え書までついている。

又幕閣にあっても、かねてから権勢ならぶものなき大老酒井を*快しとしない向もあったので、いくら酒井が伊賀守を推せんしてもそれには自ら限度がある。酒井にしても所詮は他家の問題、あまり深入りをしたくもない。

いろいろ曲折があったが信政死後五月経った七月にいたって右衛門佐相続と決定になっ松代派に凱歌があがった。一時は、信幸も「これで松代真田は滅亡か。」どこまで心配した相続問題も解決し、七月十六日に盛大なる披露の宴が催された。

これに引きかえ、沼田側の悲嘆は大きく、特に当人の伊賀守信澄に与えた精神的打撃は深刻なものであった。

幼いころから妾腹なら故に絶えず冷飯を食わされ、長ずるに及んでも結局真田の宗家を継ぐことはできない。こうして屈辱、落胆、失望が今後の信澄に影響することは当然考えられる。思えば信澄という人の境遇には同情すべき点が多々あるが、それは個人信澄に対する同情であって、城主という立場にある信澄に対しては又異なる解釈も当然考えられる。


 
 
後日談になるが、沼田真田氏はこの信澄をもって滅亡するが、松代真田氏は右衛門佐改め幸道となるもその子孫は蓮綿として現在まで続いている。

なお当時沼田は表高三万石で、松代は三倍以上の十万石であった。しかしこれはあくまで表面的の話で、沼田は実収十万石は優にある、いわば裕福な内容であるに比べて、松代は十万石が勢一杯という財政内容だった。しかし藩主の格式は表高によるので、そんな点が信澄の大きな魅力だったのだろう。沼田藩が裕福だった一つの証拠として、二代信吉が亡くなった時、信幸は沼田から十万両という大金を松代に運んでいるし、信政が松代へ移るとき更に八万両を持ち出している。

計十八万両という大金が沼田から松代へ持ち出されているが、一体この金額は現在の金に換算してどの位になるか。

金の延棒の形で運んだか、慶長判の形で持っていったかわからないが、仮に後者だとすると、

慶長小判一両の重さは四刄七分六厘(十七、八五g)金の含有率は一〇〇〇分の八六三であるから、一両小判には金が四刄一分含んでいる。

現在金は一刄約六〇〇〇円であるから、一両小判は実質二四、六〇〇円になる。(骨董品的価値は九〇万円以上といわれる)すると十八万両では、四十三億二千万円という巨額になる。

これだけ松代に持ち去られているのだから信澄にして見ると憤懣やる方ないものがあるのもわかる気がする。

しからばどうして沼田藩はこの様に裕福な財政内容だったのだろう。

一つには信幸自身がなかなか蓄財の才に長けていたという。

二つには利根の地は、表高に対して地積の余裕があり、開拓によって増収をはかることが可能であったこと。

三つには利根の山からは、金をはじめ各種鉱産物の産出が見られたこと。もっとも真田時代を終るころはあらかた掘りつくしてしまったが………。

こんなことが余裕をもたらす主な原因だと推察する。

ひところ松代の金蔵は、金の重みで土台がめり込んだなどと噂される程運びこんだが、この金がかえって仇をなし、果ては松代藩を窮迫のどん底に陥入れることになる。

信政死後の相続問題をめぐって、沼田松代の抗争は激化の一途をたどり、やがては沼田藩滅亡の端緒となるが、松代真田氏はその後も徳川幕府の政策の重圧にも堪えてよく宗家を現在まで存続せしめた。

今日、「真田史料館」を観るとき、その豊富な資料と、保管のすばらしさには頭の下がるものがある。