沼田・松代との対立

沼田四代城主信政が、信幸隠居後松代十万石の城主となったのは明暦三年七月二十三日(一六五七)である。

翌四年五月二十四日、信政は中風となり、二月五日に、父信幸に先立って没した。時に六十二才、松代城主として入城以来、僅か七ヶ月という悲運であった。

信政歿後、松代において後継者問題が起り、一時は社稷も危くみえる程の紛争が起ったが、隠居信幸は当時九十三才、何分にも老齢のこととて決定的の裁断も下し得ず、一時は京都へ上り閑居しようとさえ考えるにいたった。

この後継者問題は一真田家内部のみにとどまらず、やがては中央幕閣の政治問題にまで発展したので紛糾を極めたと思われる。

しかしそれも大勢の決するところとなり、松代の後継者は、信政の庶子二才の右エ門佐幸道に仰付けられたが、隠居信幸も心労が重なってその年十月十七日に波瀾の生涯を閉じるのであった。

顧るにこのたびの松代後継者問題は、一面においては、松代と沼田との間に重大な確執を生じ、一面においては時の大老酒井雅楽頭忠清と老中との間についても一つしこりを生じた。

沼田はたとえ三万石であっても、信幸が初代の城主として真田氏の本拠としてところでいわば嫡流の家柄である。これに対して松代は真田氏の新居で二男信政が継いだのであるから分家とも見られる家筋である。

にもかかわらずその石高が十万石であるということは何か割り切れぬ感じがする。沼田新城主小賀守信澄にして見ると、信政歿後は当然、後釜は自分が据えられると思っていたことだろうし、家臣達も期待していたのにちがいない。

信政は二月発病以来、跡目については非常に心配していたと見えて、切々たる心情を書置にしたためておいた。信政は松代相続した当時、沼田から随伴して来た家臣が唯一の心頼みであり、従来よりの松代在住の多くの家臣とは、日も浅かったためか親しみは薄かったのであろう。

ところがその遺書の内容は跡目相続の件に関して、一通は老中宛、一通は沼田よりの家臣に宛てたもので、老父信幸に対するものは全くなかった。

そのため信幸は、父をないがしろにしたとばかり痛く憤激し、「家督相続のことなど、どうなってもかまわぬ。」とさえ口走る始末だったという。

そんなわけで、信幸と信政は生前からもあまりしっくりいかなかったのではないかという憶測も生じ、場合によっては信政の子より、むしろ沼田から信澄を呼び寄せ、跡目に据えさせる考えも全くないとはいえなかったろう。

沼田城主信澄は、時の大老厩橋城主酒井雅楽頭忠清とは多少の縁につながる身であったので、大老としても信澄をして松代十万石に封ぜしめたい下心は充分あった。

老中諸公にしてみれば、かねてから権勢を誇る大老酒井忠清に対して、快からざるももあり、加うるに信政の遺書もあるので、跡目は信政の子幸道に継がせるのが至当とばかり力説する。

このような中央の状勢に呼応して、沼田においては必死の運動を展開し、先ず心ききたる中沢主水をして信幸の隠居所へ差し向けてその意を伝える。又信政に随行した沼田ゆかりの家臣に働きかけるが、この家臣達も二派に分かれ、強硬に伊賀守の松代入りに反対する者もあらわれてくる。

あれやこれやの大騒ぎのうちに幸道相続が決定し一応の落着をみたが、この相続問題は沼田と松代の間に大きな溝を残してしまった。


 

松代方にしてみても相続問題は解決したものの、以来大老酒井忠清の心証はきわめて悪化したと考えられる。前号に詳説したが、信幸が沼田より松代へ移る際、運んだといわれる十万両と、信政が移るときに持ち出した八万両と、計十八万両という代金がその後大きく松代藩に災を残した。

ひところ松代の金蔵は、金の重みで土蔵の土台がめり込んだと噂される程であったが、そんな代金を擁する松代藩をどうして看過できよう。早速相続問題が決着すると幕府から様々な形でこの代金を費消せしめる献金、課役が命じられる。

明暦四年(一六五八)信政卒去

万治元年(一六五八)幸道相続

・明暦四年と万治元年は同年である。七月に改元となる。

同年 信幸卒去

万治二年(一六五九)六月に金子八箱、七月に金子六箱献金を命じられる。

松代関係の資料によると、初代信幸の遺金は二十七両と伝えられ、三代幸道の寛文年代(一六六三ごろ)には金蔵に二十三万九千余両、黄金五十枚が所蔵されたといわれるから、この程度の献金は当然あったろう。

この後も松代藩は、幕府政策の犠牲となって、しばしば大課役を命ぜられ、藩費の支出は増大する一方となった。

幸道の生涯においても

・江戸城普請手助け

・善光寺普請

・高速検地

・日光普請手助け

・再び善光寺普請手助け

・朝鮮人使節供応

等をはじめとして、千曲川の大洪水、地震等の天災が続き、入費のかかることばかり、さすが裕福だった松代藩も財政が極度に窮乏し、五代信安にいたっては借用金二十一万六千両、籾借用四十七万八千余俵という想像もつかぬ状態となってしまう。

やがて藩財政の改革のため、恩田木工民親の家老職起用となり、約十年にわたる辛苦の末、遂に建て直しに成功するという後日譚がある。

さて沼田方にして見ると、相続問題は失敗に終ったので、せめて信幸の遺金分配にあずからんものと、寛文三年十二月(一六六三)信澄は松代に対して「伊豆守信幸公の遺金は金二十七万両ときいている。そのうち十五万両は隠居の際に、城に残してある筈だ。この際それらを一族の者に分配すべきではないか。

重臣共よくよく相談の上しかるべく善処されたい。もしも何やかやと申立てるならば、幕府へこの旨申し出し当方の言い分を主張する考えである。」旨の書状をつかわした。

これに接した松代では意地も手伝い、分配を拒絶したという。

それでは………というので改めて信澄は、幕府に対して「信政が松代へ入部の際持参した金七万三千五百八十二両一分の金子は、元々沼田のものであるから、是非とり戻してもらいたい。」と訴えたところ、これが敗訴となり、信澄の面目は丸つぶれとなってしまった。

相続問題も、遺金分配問題も、訴訟事件もすべて沼田の負け、即ち信澄の敗北となったのであるから、信澄が松代を憎むこと仇敵のような状態となってしまった。

松代においても、信澄を中心とする沼田方を憎むこと非常なもので、「松代衆は、末々まで沼田衆とは一切交際を絶つ。」とばかり、その後、同じ真田氏一族でありながら永く背反してしまった。

明治五年、再度の火災で焼失した後に同十九年にいたり再建した。

松代初代城主真田信之(信幸)霊廟長国寺本堂裏手にある。

万治三年(一六六〇)建立。類焼を免がれ現存している。国指定重要文化財。