老公信幸の裁断によって内紛の危機も一応去ったとはいうものの、決して正論によるものでなく、一時的に糊塗する解決方法であったためこれから後も家臣間のわだかまりはくすぶり続けるのであった。しかし一応は平和的解決を見た信幸は、一抹の不安はもちながらも松代へと引上げて行くのだった。

それに一時あずかりと称して松代へ運んだ信吉の遺金十万両も何れの日か決着をつけねばなるまい。

信政とてもこの度正式に沼田城主とはなったものの、何か安定した身分ではない。月夜野へ蟄居している兵吉はやがて成人のあかつきには再び巻き戻しをはかるであろうから、やがては彼なりの保障を与えずばなるまい。

あれやこれやを案じる信幸は、何かうしろ髪をひかれる思いで信州路へ旅立ったのであろう。

さて信政は寛政十六年(一六三九)七月に沼田城へ入った。時に四十三才の働き盛りで、父信幸のような智謀の士ではないにしても、今や信用回復、実力誇示の機会は到来した。相変わら女色を漁さる生活は変わらぬが、今や水を得た魚のようにはつらつとして領内の政治に着手するのであった。元来は積極的、行動力のある人だから先ず手がけたのが藩の産業計画であった。それもそのはず表高三万石のうち兵吉に五千石はとられているから実質二万五千石である。さなきだに山地の多い利根の地にあってはよほど増産を計らぬと困窮するのは目に見えている。そこで

●用水、溜池の構築によって農作物の増収をはかり、

●荒地の開墾、開発によって耕地の拡張を目ざす、

●城下町の繁栄をはかるために、区画整理、宿駅の整備につとめると矢つぎ早やに政策を打ち出し、これが実施に邁進した。

一説によると城主就任一年後には早くも三万七千三百石の実収をあげたというが、ちょっと信がおけないけれど、なにやら信政の意気込みの程が察せられる話である。

 

 

実質的に石高を増そうとするならば、田圃の拡大をはからねばならない。そのためには先ず水利を開かねばならない。そこで着手そたのが堰の構築である。信政時代に完成した水利事業は、今日記録に残るものでも

一、渕尻堰
一、月夜野堰
一、須摩野堰
一、真庭政所用水
一、赤谷堰
一、大峰清水堰
一、大峰山湖水堰
一、横尾堰
一、四ケ村用水

の多くにのぼり、この外年代不詳の古い堰の中に信政の経営によるものがかなりあったのではないかと思われる。

このように多くの水利を開発したことは一面においては増収の道につながるとしても、工事につぐ工事で関係農民の労役も相当過重となったことも事実である。遠い将来は耕地の開発によって民生がうるおうだろうが、時に夫役の連続を強いられる領民にして見ると非難の声も次第に高くなった。やがてこうした百姓の苦しみがいわゆる茂左エ門騒動の遠因となったと考えても無理ではあるまい。

又城下町の商業振興策として町並の区画整理を行った。かって初代城主信幸は旧態依然として城下の集落を近代的城下町に転換すべ壮大な道路計画を樹て現在の沼田町の町並の基礎作りを行ったが、それより約三十年後に四代信政は思い切った町づくりを更に断行した。この両者による町並作りが現代沼田を構成する根幹となっている。基盤の目のように井然とした街路は当時の都市計画の所産であってこの点は両者に対して感謝すべきであろう。

今信政の計画による区画整理を例挙すると

一六四四(正保元年)馬喰町を割立てる。
一六四五(正保二年)栄町を割立てる。
一六四八(慶安元年)原新町を割り当てる。
一六四九(慶安二年)戸鹿野新町を割立てる。
一六五〇(慶安三年)生品村、湯原の宿割をする。
一六五一(慶安四年)沼須村の宿割をする。
一六五三(承応二年)月夜野新町を開く。真庭、政所を割立てる。

割立てるというのは、けじめに勝手に建てた家を取払い、新たに道路を作り、それに沿って家を建てさせるという今日の都市計画のことをいう。

かくして面目一新した城下町沼田は飛躍的に戸数も増加し、次第に商業地化して行くのであった。

信政は治政の実績で判明する通り、開発狂とさえいわれる程の事業家であったがその反面、複雑な家庭事情に災いされ晩年はあまりふるわなかった。

信政には五男一女と子があったが、みなその生母が異なるという漁色家で素行上は誠にかんばしからぬ点が認められる。そんな関係でさえなきだに複雑な家臣の間にあって閨閥による抗争が常に絶えなかったともいわれている。

正保元年(一六四四)の六月二十三日の夜中、城内裏門の二階で、次男の又八が弟大学を切り殺害した上家臣の佐久間善八をも切り殺し、その場で自害する騒ぎがあったり、その後家庭内の波乱から正妻を離別したりの事件がそれを証明している。

残る四男の百助は盲目という、誠に家庭的には不幸つづきであった。

やがて時移るに従って一見安泰と見えた沼田に遂に来るべきものが来た。明暦二年(一六五六)松代にあって初代城主をつとめた老公信幸は九十一才の高齢を迎えたので、この年の五月将軍家に対して隠居を願い出て許可となった。思えば上田より移ったのが五十六才を経過した。今はよる年波に勝てず剃髪して一当斎と号したが問題は松代城主の跡目相続である。かっては沼田の城における同じ問題に頭を悩した信幸はこの度は自分の問題として振りかかってきた。おそらく先年の相続に関する約束を思うときせめておれの息のある時点において抜本的な措置を講じておかねば真田一族の滅亡にも関わるとここに隠居し、後事に対する布石を考えたのであろう。

一世紀になんなんとする自己の生涯と世の移り変りを考えるとき、信幸は真田氏の行末について一つの諦観を持ったのではあるまいか。いうまでもなく真田の本派は松代にあり、沼田は一つの分家として見る、そして沼田の内部事情や、かっての解決条件を思いかえすとき、ふと頭をよぎったことは、とかげは自分の身が危いときは尾を切り離す手段によって本体を助ける故事ではなかったろうか。関東における真田の存続は今後保障はつかぬ。この際江戸よりはるか離れた松代にあって家の継続を考える方がより現実的な志向ではあるまいか、とすれば沼田は妾腹の子兵吉にまかせ、この松代の城はわが子信政を呼び入れて後継者とする策がより妥当と思いいたり、老の一徹、強引にも信政を招致して跡目にすえたのである。

信政の身にして見れば二万五千石から十万石への移封であり、しかも今後の身の保障は完全である。何もって反対すべき理由があろう、おそらく勇躍赴いたであろうことは想像に難くない。この時信政は八万両という金を持って出向いたが、やがて信政相続が沼田、松代間の大抗争となろうとは?

沼田万華鏡より