彼等奸臣共にして見れば、決して私腹を肥やすためとか、ある陰謀を企てたとかいうわけでもなく、唯先見の明がなく自己の栄達をはかるべく、権勢欲、事業欲に燃ゆる主君に迎合していたのであろう。要はそうした雑草がはびこる地盤であったのだ。

領民怨嗟の声もそれが実行に移されるまでには仲々時間がかかる。由来百姓は長い年月搾取される生活を繰り返えしてきた。そのため、忍従と諦観は生活を守るための信条となり、果ては性格にまで浸透し、一種独得の処世観を待つまでにいたった。「百姓と油はしぼれるだけしぼれ」「百姓と申す者は生かさず、殺さずという境地に置くこと肝要なり」などという言葉がある位、為政者はこの弱く貧しい人達を取扱ってきた。

領主の暴政を一体どこへ訴えたらよいのか、まさか藩の役人に申立てても取りあげられるわけはない。仮りにも不平不満をもらすようなことがあれば直ちに召し捕られてしまう。窮状に堪えられず他国へ走ろうものならばこれは「逃散」の罪のとわれる。百姓が土地を捨ててしまえばそれは餓死を意味する。一歩ゆずって他国へ逃げこんだとしてもそれは無籍者として一人前には取扱われない。
 
 

 

さて信澄はこの様な緊迫した状態にもかかわらず、一方においては盛に事業欲の実現につとめた。それは沼田の町における社寺の壮大な建築によって顕示される。以下個条書にして見よう。

・明暦三年(一六五七)二十三才信澄沼田城主となる

・明暦四年万治元年(一六五八)二十四才

城の修理工事をはじめる。

松代城主真田信政急死する。

その相続問題をめぐって松代、沼田対立する。

信政の遺志及び幕閣の意向もあって松代は信政の庶子幸道がわずか二才にして継承する。松代十万石の領主の地位をねらっていた沼田城主信澄は、この処置に大いに落胆する。祖父信幸、及び時の大老酒井忠清の内意は信澄をして後継者たらしめようとする動きがあった。しかしこれは失敗となる。

・万治二年(一六五九)二十五才

・万治三年(一六六〇)二十六才谷町(現在の柳町)を割立てる。高橋場町も同時期と思われる。

・万治四年寛文元年(一六六一)二十七才

・寛文二年(一六六二)二十八才信澄、拡大検地を実施する。これによって表高三万石の沼田領は一躍十四万四千石となる。

父河内守のお霊屋を迦葉山に建立。

・寛文三年(一六六三)二十九才桃野村小川郷にあった常楽院を幕岩の地に移し、二百石を寄進祈願寺とする。

・寛文四年(一六六四)三十才柳町三光院に観音堂を建立。同院に石灯篭二基寄進する。

・寛文五和(一六六五)三十一才

・寛文六年(一六六六)三十二才材木町天桂寺のところにあった舒林寺を現在の場所に移し、その跡に新巻村今宿にあった瑠璃光寺を移して天桂寺と改める。(一説に舒林寺が現在地へ移ったのは寛文二年というのがある。)

・寛文七年(一六六七)三十三才本陸寺(妙光寺)建立。柳町常楽寺に五間四面の観音堂を建立。新たに京都より千手観音堂像を購入して安置する。これは三光院住職に十一面観音の献上を申入れたところ拒絶されたための報復手段出会った。

・寛文八年(一六六八)三十四才正覚寺の本堂、霊屋、庫裡の大改修。舒林寺の本堂建立。

・寛文十一年(一六七一)三十七才天桂寺の山門造営

・寛文十二年(一六七二)三十八才三光寺の末寺で高橋場原田にあった常福寺を材木町の現在地に移し、長寿院と称して同寺を創始する。この時宿怨のあった三光院より末寺、寺領ことごとく没収して新設長寿院に寄与する。

・延宝二年(一六七四)四十才三光院の西にあった侍屋敷を取りつぶし、新たに六間に十八間の庫裡を造営し、かねてから帰依していた僧、南明に与え瑞麟寺と称す。しかし本堂、山門は造営にいたらずいかなる事情か南明和尚は寺を返し立去ったので無住となり延宝五年廃寺となる。この新寺造営は明らかに三光院に対するいやがらせであった。

以上概略を列挙したが、いかに木材の生産地とはいえ、この様に矢つぎ早やに大建築を行われたのではたまったものではない。藩の財政は年を追って窮乏状態となったろう。

信澄の寺院建築の真意は果して何であったか、これは興味ある問題である。

1、真実の信仰心のしからしめるところか。

2、事業欲を満足せしめるためか。

3、人心収攬政策の一つの現われか。

いずれにしてもやや異常に属する建築狂である。おかげで今日沼田に残る数多くの寺院はこの時出そろったことになるが、当時の建築物はその後、火災にあって現存するのは一ヶ寺もない。いずれも後世再建したものばかりである。今日見られる各寺の規模からは想像もできぬ程、宏大豪壮な建物だったのだ。しかしどの寺も現存のように庶民に関係を持つことはなく、領主及び家臣団のためのものだった。