真田信幸は沼田鞍打城の城主となったのは天正十八年(一五九〇)、二十八才の時であった。

以来鋭意領地の復興につとめたが、彼が三十六才の時、豊臣秀吉が薨じ、更に三十八才の時関ヶ原の戦が起った。

天下分け目のこの戦の後、世情は一変し、新たに德川氏が天下の趨勢を握り、慶長八年(一六〇三)に家康が征夷大将軍に任ぜられる。

家康、将軍となることわずか二年位して慶長十年(一六〇五)秀忠に譲り、みずからは駿河城に退く。

一方大阪にあっては秀吉の遺子秀頼を擁した豊臣方が、失地快復をねがって事毎に徳川と対抗するが、時すでにおそく人心は関東方へ傾き、遂に慶長十九年(一六一四)冬の陣、次いで翌元和元年(一六一五)夏の陣と、破局の道を辿るのであった。

この様な天下の情勢下にあって、沼田における真田信幸は、入城以来一意専心領地の統治につとめていたが、慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦によって失脚した父昌幸の領地、上田六万石を新たに拝領し、沼田三万石と併せて九万石の大名になるのであった。

したがって信幸が沼田統治に専念できたのは天正十八年以来の十年間で、これ以後は上田城との兼任時代が十六年間続くのである。

その後、元和二年(一六一六)、信幸は妻大蓮院夫人(小松姫)を伴い上田の城に引移るにいたり、永年手がけてきた沼田の城を長子河内守信吉に譲るのである。

かくして天正十八年以来、統治二十六年の名君信幸を沼田を沼田は失った。

上田に移った信幸は、この地も安住の地とはなり得なかった。

移封後六年を経過した元和八年八月二十日、突如二代将軍秀忠より急ぎ出府を命じられた信幸は、上田六万石より松代十万石への移封を申し渡されるのであった。