真田氏改易の直接原因は、伊賀守の失政にあったことは否めないであろうが、ここにいたるまでの経路については色々の問題が考えられる。以下重だった事柄について考察を進めることにしよう。

先ず、事件の推移を大観する手段として簡単な年表を記してみる。

先ず考えられることは、徳川幕府の外様大名に対する基本的な措置である。

豊臣氏の恩顧につながる外様大名の存在は徳川幕府にとって決して好ましいことではない。そのため事ある毎に幕府はこれら外様大名に対して辛辣な処置を採り取りつぶしを計っている。

特に真田氏に対する幕府の感情は厳しいものがあった。かつては家康と信幸との個人的結び付きはあったにせよ、すでに幕府という組織の固った当時にあって見ればそんな個人の情誼など問題ではない。いわば遠い昔の物語である。

外様大名の一方の雄である真田氏が関東北辺の要衝沼田に播居している事実はいつの日か抹消されるべき運命にあることは自明の理である。おそらく幕府は取つぶしの機をじっとねらっていたのだろうが、はからずも五代信直の時代にいたって恰好のチャンスが到来したのではなかろうか。

それにしても信直の暴政にしてよくもここまで保っていたと思われるが、実は信直には強力な後援があった。大老酒井雅楽頭忠清がその人である。

先にも述べた通り酒井家と真田家とは姻戚関係にある。そんな点から陰に陽に時の権力者大老酒井の庇護があったことは当然考えられる。

ところがその強力な支柱である酒井大老が将軍継嗣問題にからみ失脚するや俄然幕閣の態度は一変したのである。支えなき信直はもはや舵を失った小舟同様、適当にあしらわれる結末を見るにいたった。

次には松井市兵衛、杉木茂左エ門の一命を睹した直訴による内情暴露が考えられる。

増税につぐ増税、それに加える御用材搬出の労役割当、しかもうち続く天災地変とあっては農民達は泣くにも泣けぬ窮状に追いこまれた。そうした事情をよそに領主信直は相変わらずの普請好きで各所に豪華な建物を造っている。家来は家来で主君の留守勝ちを幸いに情容赦もなく各種税の取り立てに狂奔している。正に「百姓と油は搾れば搾るほど出る」を地に行ったやり方であった。

松井氏兵衛は沼田と月夜野の中間、真庭政所の名主、かねてから対策に悩んで近村名主達とも相談はして見るものの名案とてなく泣き寝入りしていたところ、延宝七、八年と二年続きの大水害で殆んど無毛に等しい減収、その上御用材搬出のための人足強要が始った。

特に真庭政所や月夜野のように街道筋にあたる伝馬宿ではこの外馬の割当も特別過重であった。

市兵衛は隣の月夜野杉木茂左エ門とも同じ立場にあたるため連絡しあううち、ひそかにこれが打開の具体策練り始めた。

尋常な方法では何としても解決の道は開けない。残る道は唯ひとつ、それは領主以上の人に直接訴えることしかない。しかし当時は「越訴」「強訴」「直訴」は統治の道を無視するものとして固く禁じられ、仮に強行すれば事の内容如何にかかわらず死罪をもって対処した。

このように厳しい掟があっても局面打開のためには敢えて身を捨てる覚悟で立ち上った市兵衛、茂左エ門も心情を思う時一掬の涙なしではありえない。

先ず市兵衛が単独越訴に踏み切った。政所村の実情を詳細に述べ、伊賀守の政治を完膚なきまで追求した「訴状」をしたため、江戸へ出かけ幕府目付役桜井庄之助へ越訴した。

やがて市兵衛は越訴の罪を問われて十二月末利根河原で斬首の刑に処せられた。しかし沼田領の内状は一応中央部役人の知るところとなった。

一身の安危をかえりみず、郷人のために敢えて義挙に踏み切った市兵衛の壮烈な最後はどんなにか人々の胸を打ったことだろう。やがて地蔵尊が祀られ、これを市兵衛地蔵と称して遺徳を偲んでいる。

市兵衛の単独越訴に続いて第二弾ともいえる杉木茂左エ門の直訴が行われた。

茂左エ門の場合は伊賀守領分 利根郡 九十五ヶ村 吾妻郡 七十五ヶ村  勢多郡 七ヶ村  右三万石願人惣代という立場で直訴している。

両訴状共に領内困窮の様子をあますところなく伝えているが、実はこの訴状、及び越訴直訴の方法手段について相談相手となった影の立役者があった。これぞ大宝院(現新治村)六世覚端法印その人である。

覚端法印自らも伊賀守の暴政に憤りを感じているときでもあり、茂左エ門等の真情溢るる打明け話に深く打たれ、その本望達成のためには協力を惜しまぬ決意をした。

茂左エ門は覚端法印の指示に従い、訴状を携え出府し、かねて計画した通りの方法を実施した。

幸いにも計画通りに進行し、訴状は上野輪王寺御門主天真法親王の手から将軍綱吉に移された。

綱吉は昨延宝八年五代将軍に就任、文教政治に力を入れ、特に租税の苛酷と官紀の粛正については特別に意を注いでいた頃であった。

茂左エ門の訴状に接した綱吉は、さきの大老酒井雅楽頭忠清の親戚である真田伊賀守のことだけに、何やら特別にピンとくるものがあったらしい。その上綱吉は伊賀守については苦々しい思い出がある。かつて綱吉が館林の城主時代、おのれの領内を通行する伊賀守の行列に無礼があったとかで、がんぜない幼女を手討にした事件がふたたび浮び上ってきた。当時綱吉は「たとえいかなることがあろうとも無心の子供を直ちに手討にするとは伊賀守という人は心なき領主である。」と肝に銘じた。

以来綱吉自らの命令で伊賀守周辺の探索が始められ真相を究明すると共に、訴人を召し捕るよう手配が始まった。

ここにいたって幕府の密偵、穏密の手は沼田藩の内情調査に伸び、一方両国橋用材調達の経緯についての調査が密々のうちに進められた。知らぬは伊賀守及び沼田藩の家中だけである。これらの人々は唯用材を期日までに間に合わす様、あらゆる手段を講じて専念していたのである。

やがてすべてが明白となり伊賀守に断が下されるにいたり、市兵衛、茂左エ門の所期する点は達成されたが、越訴、上訴の罪はそれとは別に厳しくとがめられ、市兵衛は前述の通りの処罪となり、茂左エ門はしばらく各所に身をひそめていたが、遂に天和二年、その後の沼田藩百姓の生活がどう変わったかを知らんと郷里に立戻りこの目で確かめた上で自首しようと郷里月夜野に帰ったところを捕えられて十二月五日、利根川原において妻と共に処刑された。

余談にわたるが、今回の上訴事件影の立役者覚端法印も無事ではあり得なかった。直訴以前より茂左エ門と交渉ありとにらまれ沼田藩役人の手により捕えられ、一旦は釈放されたが、途中恩田河原で石子詰めの極刑に処せられた。

これも後に里人の手によって厚く祀られたのが今日残る大宝院富塚である。

更には、捕えられた茂左エ門の赦免を働きかけた地元有志の運動が効を奏し、幕府よりの赦免状を携えた上使が早馬で月夜野処刑場めざして駈けつけたが、惜しくも四㎞手前の井土上まで来たところ既に処刑が終った報に接した。その上使は誠に責任感が強い人と見えてその場で切腹して果てたという。後に近隣の人々はその心根を哀れと思い地蔵尊を祀って葬った、これが今に残る井土上の状橋地蔵である。

第三の素因としては、延宝九年五月、幕府より派遣された巡見使が沼田藩にやって来たことがあげられよう。

巡見使というのは将軍の代替りごとに全国を数区に分けて各区に派遣、地方行政を査察し、政治が適切に行われているかどうか、いわば領主の勤務評定をする役目である。

そんなわけで臨時の職名であるが一行約二十名から編成され、これを迎える側はそれこそ大変、丸ではれものにさわるように神経を使う。

沼田藩を訪れた巡見使一行は直ちに、前年からの風水害の被害状況、それに対する処置、百姓の生活等について調査を開始した。査察になれているこれら一行の目をごまかすことは困難である。要所要所は全部見すかされてしまったろう。巡見使は見聞した一切を細かく記録した報告書を厳封して伊賀守に渡し、江戸幕府老中へ提出するよう命じた。

伊賀守は報告書の内容も知らぬまま急飛脚でその日のうちに江戸へ発送した。

巡見使の査察報告書は秘中の秘でその内容は知るべくもないがおそらく伊賀守にとって決して良いものではなかったろう。

次にいろいろの情報に接した幕府は、事実の真相をより正確に知るべく、あらゆる手段を講じて沼田藩の内情探査に当たったことだろう。

であるから評定所吟味の段階においては、もはや沼田藩の痛いところはすべて握られており、一言の弁解の予地がなかったのではあるまいか。伊賀守の釈明の言葉が一言もなかった事実より、なにかその間の消息を無言のうちに物語っているような気がする。

かくして一切は終った。そして残ることは真田伊賀守信直という領主の人物評である。

およそ人物の評価位むずかしいものはない。それは視る角度によっていろいろの評価がなされるからである。特に文章で表現する場合はこと更困難といえよう。

信直は名君か、暴君か、暗君か、と問いつめられてもなかなか格付けに困る。人の生涯、行績に関して単一原理によって決めつけることのむずかしさはよく経験するところであるが、信直とても同様で簡単な評価はできないが、こうして事実をたどる限りにおいては名君とはいえない。

たとえ悪臣のなせる業にしても、領主たるべき立場にあるとき、これを看過し、察知できなかった点は公人として責められべきであろう。

ここに沼田町(榛名町を含めて)の各時代における検地石高を掲げて見よう。