代官支配始まる

真田氏滅亡の後、沼田三万石は幕府直轄となり、ここに代官が配置される。

初代の代官として

竹村惣左エ門嘉行
熊沢武兵衛良恭

の二名が任命され、城受取りの上使と共に、天和元年(一六八一)十二月十九日に沼田へ着任して治安維持に当ることになった。

前記二名は合議制によって真田氏没落直後の混乱その極に達した沼田の城下に、次々と適切なる措置を採って人心の動揺を防ぐのであった。

一方在方の百姓が多年にわたる凶作と秕政により餓死寸前にまで追い込まれている実状に対し、これ又対策に尽力し、次第に恢復を計るなど、日夜善後策に心を砕くその格勤精励は特筆すべき行績といえよう。
 
 

善後策とりどり

永年にわたって統治していた藩主が失脚ともなれば、これは大混乱を生じるのは当然である。

扶持を離れた家中の者たちが、職探し、家探しに狂奔、それらの家から諸道具等が流れだし、これを買いたたく商人達の群、正に当時の沼田城下は百鬼夜行ともいうべきパニック状態を現出するのであった。「この先どうなるのだろう。」不安は動揺を生み、動揺は混乱を導く。

こうした際にあって両代官は機を移さず適切な指示を与えた。そのため人心も次第に鎮静におもむき、治安も維持されてきた。

侍達に対する指示は城受取りの統領安藤対馬守より発せられ、百姓、町民に対する指示は行政官である両代官から出される。

天和二年二月には両代官より百姓、町人に対する細々とした指示が与えられた。その二、三の箇条をあげると、

一、何事によらず徒党を組んではいけない。

一、買置き、売り惜しみ等堅く禁じる。もしも違反した節は当人は申すに及ばず名主、年寄、五人組まで罰する。

一、博奕その他賭けごと一切厳禁する。

一、遊女を抱え置いたり、他所から来たりするのを禁止する。

一、操りかぶき、忍び見物の品々も停止する。

一、得体の知れぬ者に宿を貸してはならない。

等々、微に入った注意を与えている。

更には破壊した城跡の土地及び家中の屋敷跡を払い下げることにし、田畑三反歩から五反歩所有の百姓を慎重に調査し、その者に申し渡したところ、一人も希望者が出なかった。

何分にもお殿様のお住居の跡では……皆はばかったという。

城内の栗林だけは名主や年寄達が百姓に代って自分達が開発し、その分の年貢は差上げることになった。

又、柳町の西側から東倉内町の北部一帯は当時侍屋敷が一面に建てられてあったが、これも城と共にすべて取払われ畑として民間に払い下げた。今でもこの付近一帯を「新畑」というのはこの訳である。

両代官は沼田へ赴任以来、何はともあれこの土地の実情を知らなければと直ちに事情聴取を行なっている。

代官熊沢武兵衛は城取りこわしの前日、正月二日と三日の二回にわたり、自分の宿舎陣である上之町太左エ門方へ信直家臣

加沢平次左エ門
矢作亦兵衛
高橋三太夫
鎌原伊太夫

の四名を招致して沼田領内の諸事情を詳細に聴き、

一方竹村惣左エ門は本陣の下之町勅使河原五郎兵衛方で正月八日、熊沢代官立会の下に前期四名を呼び色色訊問した。そして陳述した内容を加沢平次左エ門に書き記させた。この事の記録が今日残る「上野国沼田領品々覚書」と称する古文書である。

この調査書は領内の事情をあまねく記録されてあるため、両代官にとってこよなき今後の指針となった。

両代官の緊急手配そのよろしきを得たので城下にはさしたる問題も起らず平穏に打ち過ぎたのは顧みて甚だ幸せであったといえよう。

残る問題は百姓、農民の救済にある。

両代官が新しく統治者として就任以来、各方面から陳情が寄せられるがこれは非常にむずかしい仕事だ。
 
 

再検地願上げ

沼田領表高は本来三万石である。

それを寛文二年、三年(一六六二~一六六三)にわたって伊賀守は 十四万四千二百二十三石 に検地した。昔からみれば大分新田の開発等もあるので数字面で考える程、実質的には大拡張でもなかったらしいが、それでも厳しい増加率である。

特に利根、吾妻地先は地勢が険しく、地味も良くないので単に面積のみでの割合は百姓にとって苦しかったにちがいない。この様な大幅拡大による年貢取り立てをその後実施すること十八年間、加えて天災続きとあっては百姓の困窮は目に見えるようだ。

今回その張本人である殿様が亡びたので、表向きこそ「どうもえらいことだ」とはいいながらも、腹の中では「どうやらこれで重税から免れるだろう」と誰しも安堵の胸をなでおろしたことだろうが、さて殿様がいなくなり、城がこわされ、侍達が四散しても、この年貢割当だけは一向改善されない。

これでは折角利根、吾妻、勢多の百七十七ヶ村の百姓に代って献身的な努力を払った、松井市兵衛・僧覚端・杉木茂左エ門の尊い人柱が何にもならない。百姓側としては年貢割当の改善が第一義である。

百姓達は「茂左エ門を犬死させるな」を合言葉によりより相談を始めた。いうまでもなく伊賀守の過酷不当の検地をやり直して、適正検地をしてもらうためである。

村々名主連もこの情勢を見てとって、速かに再検地願を出すことに一決してひそかに最寄りの名主中から代表者を選び、代官竹村、熊沢両名宛再検地願を提出した。

実から百姓側は代官赴任以来「今再検地をしてくれるか。」それを心待ちに一年以上も待っていたことがわかる。

この一年間、たしかに代官は色々と気を配ってくれた。薪役、漆役の軽減、井戸役、窓役、産毛役な等の廃止、飢人対策、未進年貢免除、歩引などたしかに積極的に救いの手をさしのべてくれたが、これらはあくまで糊塗的な措置で、やはり本命は適正なる検地実施にあった。

しかし再検地ということになるとこれは代官だけの独断で取はからうわけには行かぬ大きな問題である。

すでに沼田領の実状については当局も充分承知していることとて代官は早速この件を幕府に報告し、その適切なる施策を進言するのであった。