第二期代官時代

本多三代正矩が駿河国田中城に転封を命じられたのは、亭保十五年の七月であった。今より二百五十三年昔のことである。当時、江戸幕府では八代吉宗が将軍として権勢をはっていた時代だった。

本田の家中一統が田中城へ引越したのはそれより三ヶ月後の十月であった。幕府では八月に後藤庄左衛門を代官として沼田に派遣し統治させた。

どんな事情、理由で新領主を決定せず、代官政治で糊塗したのか、その間の経緯はわからないが、今回の措置は受入れ側の沼田領民にしてみると何やら物足らぬ感があったことは否めない。

唯、考えられることは、江戸に幕府が開設されてから既に百二十七年経った当時にして見れば、その昔戦国乱世のころの沼田の持つ戦略的価値は通用しなかったであろう。世は正に平和そのものの時代であるから沼田という地域に対する評価は大幅に変わったであろう。

そんな関係か、幕府としては今回の大名配属上のいろいろの都合からそのしわよせを沼田を持ってきたのではなかろうか。

八月に代官が赴任してきたものの、十一月には沼田領の統治権は厩橋城主酒井雅楽頭親愛が預り、更に翌亭保十六年五月からは、越後の村松城主堀左京亮直為が守護役なっている。

従って表面的には代官政治とってはいるが、実質的支配力は前記の大名は握っていた。このような変則的代官政治が二ケ年も続くのであるが、いかにも幕府のご都合政策によるもので、その影響は領民達がまともにかぶることになる。正に沼田にとっては冷飯時代だった。

黒田氏沼田領主になる

二ケ年にわたる変則代官もやっと終末をみる。即ち亭保十七年三月(一七三二)新たに、黒田豊前守直邦が沼田城主として封ぜられる。

黒田直邦は年十四の時、徳川五代綱吉の世子徳松君の近侍として出仕以来、幕府の能吏、いうなればエリートコースを一途に進んだ。幕閣にあってよく職務を全うすること三年、その間度々にわたる加増と共に栄進の道をたどる。

直邦は性来謹直、誠心誠意上に対する忠節を励み、信頼をうけること篤かった。年三十八才にして一万五千石を賜い、常陸下館城主となる。

柳沢美濃守と同じく、自力によってかち得た昇進であるから、いかに直邦という人が幕府役人として格勤精励であったかがうかががわれる。

昔の戦国大名が、戦功によってその地位を獲得した頃と異なり、江戸幕府中期ともなれば、役人としてその手腕を買われ出世するという時代となった。

その出世コースを列挙して見ると

延宝八年(一六八〇) 徳松君の近侍   十四才

天和元年(一六八一) 三百俵を賜う   十五才

天和二年(一六八二) 小普請となる   十六才

天和四年(一六八四) 従五位に叙せられ豊前守に任ず   十八才

貞享二年(一六八五) 小納戸役・御小姓、二百俵の加増  十九才

元祿元年(一六八八) 千俵を賜う    二十二才

元祿四年(一六九一) 千五百俵     二十五才

元祿五年(一六九二) 二千俵を賜う   二十六才

元祿八年(一六九五) 五百俵加増    二十九才

元祿九年(一六九六) 領地七千石を賜う 三十才

元祿十三年(一七〇〇) 一万石となる  三十五才

元祿十六年(一七〇三)常陸下館城主となり一万五千石を賜う 三十八才

宝永元年(一七〇四) 従四位下に昇進  三十九才

宝永四年(一七〇七) 二万石となる   四十一才

宝永六年(一七〇九) 雁間伺候     四十三才

享保八年(一七二三) 奏者番・寺社奉行 五十九才

享保十七年(一七三二) 沼田城主となる老中に列せられる 三万石 侍従 六十八才

以上によって直邦の人物が一応察せられるというもの、このような人物が封じられたのであるから沼田領民にしてみると、過去二ケ年間の冷飯生活を忘れて大いによろこんだことだったろう。

先には本多正永領主が老中になり、今また黒田直邦が老中になる誠にもって名誉なことであるが、このような中央政府に職を持つ大名は、裏をかえせば沼田城主は一種の肩書であり、常には江戸に在って活躍していることが本能である。

したがって領地内の政治は家老一任となる。果して中央に職を持つ大名が領地民に対してプラスとなるかどうかは一応の考慮を要す。

その直邦も沼田赴任以来わずか一年にして世を去る。

遺骸は飯能の能仁寺に葬られる。時の将軍吉宗はその死を悼み、国中三日間というもの歌舞音曲を停止したというからその信任の程も察せられる。

さて、直邦自身は確かに優秀な人材であり、幕府に重用されたことはよくわかる。かつての真田信幸、本多正永と並び称せられる明君として数えられているが、領主という立場から利根、沼田の土地に対していかなる治蹟を残したのであろう。いかんながら殆んど具体的な事実は伝わっていない。

直邦には不幸にして男子がなかった。そこで甥を養子とし名を直基と名づけたが直基は不幸にも早死してしまった。

そこでかつて沼田の城主であった本多正矩の四男直純を養子としておのれの娘とめあわせる。従って黒田二代大和守直純は、黒田姓こそ名乗っているが実は本多氏の流であった。奇しき縁に沼田領民はよろこんで迎えたにちがいない。

この直純も幕府の役人づとめであったから、おそらく国元とはあまりなじみのない殿様だったろう。こうしら風潮はその後に来た土岐氏についてもいえる。

直純は享保二十年(一七三五)養父直邦卒去後四月に遺領を継ぎ、それより七年の後、即ち寛保二年(一七四二)七月、上総国久留里城主に転じるまでの七年間沼田城主であった。

従って黒田氏時代は、二代十年四ヶ月という短い期間で終り、次の土岐氏に引継がれる。

それにしても沼田領主時代の黒田氏についての事蹟、資料が殆んど見当らないのには恐入る。従来の町の歴史を記した書物にも、何の記述もない、あるのはご当人に関する経歴のみで、エピソード一つ聞いたことがない。

いずれ譜代大名の場合はいずこも同じ、名目のみ城主ということになろうがそれにしても沼田の歴史を語る上に何とも情けない次第である。

ここにいたって追慕されるのは真田氏で、よきにつけ悪しきにつけ沼田にとって真田氏の名は忘れない強烈なものがある。これは信州上田にしろ、松代にしろ同じことがいえるだろう。

さて次号からはいよいよ最後の藩主土岐氏に入る。土岐氏の沼田領治は十二代百二十九年の長きに及ぶので、これは又色々の話もでてきようというもの、筆を改めて記述するとしよう。