真田五代伊賀守信直が寛文二年(一六六二)実施した検地によって、沼田領は(利根、吾妻、勢多)

三万石が十四万四千二百十三石余

に石高が拡大された。

この増石によって割当てられた年貢を翌三年から、真田没落後の天和二年(一六八二)にいたる二十年間を収めていたのだから随分と我慢していたものだ。

領主が代官にかわっても仲々再検地は実施できなかったとみえる。遂にたまりかねて天和三年三月、沼田領内における七人の百姓惣代が竹村、熊沢両代官に、再検地実施の件を願い出るのであった。

両代官にしてもかねてから実状は熟知しているのでこの旨を直ちに幕府へ上申する。訴えに応じて幕府は採択し、再検地方を厩橋城主酒井忠挙に命じると共に現地代官にもこの由を通告した。貞享元年(天和四年と同じ年、二月に改元された)三月のことである。

幕府としても今回の沼田領再検地については余程慎重を期したと見えて、老中大久保加賀守以下六名の署名をもって

「上州沼田領御検地御条目」

を公布し、検地にあたる役人の心得と、地元領民の協力について指示した。

命を受けた酒井河内守忠挙は、家老高須隼人正を検地総奉行とし、直ちに実施に移させた。

高須隼人正は測量隊を組織し、医師まで含めた総計二百四十八人という大勢の人員を動員して沼田領に乗り込んで来た。

用意周到なる隼人正は測量実施に先立ち、同行の諸役人に

「貞享元年上野国吾妻郡沼田領御検地証文」なる注意書を示し作業の公正化を厳命した。

隼人正はこの度の沼田領検地以前に、武蔵国でみごとな検地に成功しておりその節幕府より直々賞美されたという実績を持っておりこの道のベテランであった。従って彼の示した注意書は誠に適切なもので、例をあげると

「沼田領である利根、吾妻の地は大部分が山間地で、平坦部と異なり田畠の中に大石がころがっていたり、付近に大木等が生い茂っている場合がある。そんなところは当然情状を酌量してやらなければならぬ。」

「測量が終ったらその結果をしたためた帳面を該当の百姓に見せて、よく納得させる。決して一方的に無理強いをしてはならない。」とかそれこそ微に入り、細を穿った指示を与えている。

なお、従来田畠の格付が上・中・下の三段階であったのを上々・上・中・下・下々の五段階に改めたので、その査定がより妥協化された。

これは百姓にとって有難い措置であった。しかもその格付は百姓と話し合いの上で行ったというから、従来、粗雑な検地によって水増しされていたころに比べて大体六分の一位に見立てられたという。

再検地は利根郡では東入り追貝村から始まり、利根郡一円が終ると吾妻郡へ移った。その都度測量本部である高須隼人正の宿舎、及び一行の宿舎も移動するわけだが、沼田辺にいたったときの隼人正の宿舎は、下沼田町長谷川宅であった。

隼人正とその直属幹部の泊る部屋と二部屋を中心とした建物は新築された。現在も残っているが簡素なものである。

高須隼人正が宿舎として使っていた家。(向って右側、左側は長谷川氏本屋)

沼田氏下沼田町七〇二
当主 長谷川哲夫氏
昭和五一、三、三〇 沼田市
重要文化財に指定

宿舎と事務所は当然異なる。事務所(御勘定所)は各地寺院を使っていた。

さて測量の方は、部分的には多少の問題はあったとしてもよく障害を乗り切り、貞享三年(一六八六)九月五日、昭和村森下の遍照寺で全領地の総まとめを完了した。

思えば去る貞享元年着手してからここに三ヶ年、地味にして且困難な再検地事業をよくも青年家老高須隼人正は完遂せしめた。

とりまとめられた検地帳は、当時沼田領は幕府直轄の地であったため一先ずは幕府へ提出した。やがてこれが村々へ下付されたのは翌四年の八月であった。

この原本は縦三〇cm、横二一cm、上質の和紙二つ折の豪華なもので、三百年近く経った今でも墨色鮮やかでいささかの褪色も見せない。現在各村で保存されているが貴重なる文化財といえよう。

しかしこうした体裁的なものもさることながら、その実質的な内容にいたっては更に篤くべきものがあり、後世にいたるまで検地事業の亀鑑となったという。

再検地によって割出された石高は

六万四千五百二十一石余

となった。

この数値は、元高三万石に比べると二倍以上になっているが、真田信直が寛文三年以来、数回にわたって検地増石した。

十四万四千余石

に比べれば実に半分以下となっている。

大体元高三万石というのは過小評価で、実収は相当上まっていたし、加うるにその後開墾等の増加も見られるので利根、吾妻、勢多百七十七村の実状から見て、今回の検地は極めて公正であり妥当であった。それだけに領民の喜びはひとしおであり、高須隼人正に対する感謝の念は言語を絶するものであった。

今回の検地を「貞享のお助縄」と称し、総奉行の高須隼人正をさながら救世主のようにあがめた領民の真意の程もうなづかれる。

ここにいたって、始めて松井市兵衛 昌月覚端法師

杉木茂左エ門

等の献身が実を結んだといえる。

高須隼人正が任務を完了し、厩橋へ引き揚げた後も、彼の行績を敬慕するあまり祠をもうけて日夜礼拝を怠らなかったという話は残っているが、いまだこの生祠は発見されていない。各称は種々あろうが必ずや利根、吾妻にあるにちがいない。なんとかして発見し、彼の偉業を顕彰する道を明らかにしたいものだ。

高須隼人正の事業の結晶である。

「検地帳」は現存しているが、三年間にわたる測量事業の経緯を物語る資料は誠に乏しい。この方面の発掘も当然併せて考えねばなるまい。

彼自身の生い立ちについてもこれ又、明らかでない。その墓所だけははっきりしているものの、これ程の大恩人の墓を訪れ、香を手向けた者、後世果して幾人か。