はじめに

「常民」という言葉がある。民俗学で使うようだが、一般人_____記録などないが速い先祖以来、代々生活してきた人々のことである。
この「常民」である農民の生活史を、以下いくつかの項目に分けて教えて見たい。
記録がないのが普通であるから、資料にとぼしく深みがないが、利南地区を中心に、利根郡内の資料を使って沼田周辺の農民を浮き彫りにして見よう。

1、人口

一、文政九年沼須村宗門人別改帳今から一五〇年位前の沼須町(沼須町・上沼須町)の戸籍簿に当る宗門人別改帳が、最近沼須町の金井鶴衛氏宅で発見されたので、これを分析してみる。

総家数  百五拾七軒

内 百五拾軒高持百姓

    三軒無高百姓

       三軒寺

       一軒堂

総人数 六百四拾四人

内 三百弐拾弐人 男

  三百拾七人  女

    壱人  医師

    壱人  出家

    弐人  道人

    壱人 尼道人

家族構成

一人   二二軒

二人   一八軒

三人   二一軒

四人   二八軒

五人   二三軒

六人   一七軒

八人    九軒

九人    二軒

一軒平均 四・一二人

 六十才以上  一〇一人(一六%)

 十四才以下  一六六人(二七%)

 十五才~五十九才の労働人口

        三五九人(五七%)

三代家族構成で、一軒平均約四人は、現在の核家族と同じであり、子供が少い、独身者が二十二軒もある。

石高(こくだか)

基準生産高 上田では一石二斗

      上畑では一石  

と田畑の等級により、差があるが、石高は生産高、面積をしめす。次にこの石高を分析してみよう。

無高       三軒

一石以下    三一軒

一石~二石   三〇軒

二石~三石   一八軒

三石~四石   一四軒

四石~五石   二〇軒

五石~十石   二四軒

十石~二十石   七軒

二十石以上    四軒

無高とは土地を所有していない水呑百姓である。
最高は五七石五斗九升、沼須村高は八七六石、田一五町、畑一〇五町であるから、平均八反歩。
これは現在と同じである。

沼須村は、地味は最上の村であり、一反が平均六斗になる。
世に五反百姓といわれる下層農家は、石高三石以下、統計で見ると八二軒、五四%に当る。だから村の半数はわずかの土地しか持っていなかった。

二〇石以上の四軒で、一五五石、二十二町歩、村の一八%所有し、最高は八町歩である。
文政九年はまだ階級文化が進まない時代だが、それでも数軒の上層に半数の下層から成立していた。
連名の中に「欠落」と書いてある不図出者(ふとでもの)が十二名認められる。この脱村者は、幕末になると多くなり、これが江戸に集中していわゆる遊民ともなるが、沼須村で十二名出たことは、社会変動の分岐点と考えられる。

二、下久屋村の人口

年号          戸数   人口  平均

宝暦十三年(一七六三) 八七  三〇四  三.五

明和九年 (一七七二) 八三  三二二  三.七

亭和四年 (一八〇四) 七三  二七七  三.八

文化五年 (一八一二) 七二  二五八  三.六

文政九年 (一八二六) 六三  二二二  三.五

文政十一年(一八二八) 六四  二四六  三.八

天保五年 (一八三四) 六二  二二〇  三.五

天保九年 (一八三八) 六一  二二一  三.五

天保十四年(一八四三) 六一  二一六  三.五

弘化二年 (一八四五) 五七  二〇四  三.六

弘化四年 (一八四七) 五八  二二二  三.八

嘉永四年 (一八五一) 五九  二一六  三.六

安政三年 (一八五六) 五五  二一八  三.九

明治二年 (一八六九) 五八  二六三  四.五

明治五年 (一八七二) 五五  二五四  四.四

幕末になるに従って戸数、人口が減っている。
宝暦から弘化までの八〇年間に、三〇軒、百名が減っている。一軒平均三、五人、子供が少いことが特徴である。
文化五年では七二戸中、一人家族が一二戸もある。子供の数を見ると

一九戸が一人

二〇戸が二人

五戸三人

という状態で、現在と同じである。

三、出生・死亡率

村の発展は、基本的には戸数、人口の増減で表示される。
ところでどうしてそのころ戸数、人口が減少したのか、これが中心命題となる。そこで基本資料として出生、死亡の統計を集めて見た。
下表にしめすように、上久屋、沼須、下久屋三部落の平均を見ると、幕末から明治にかけて

出生率………二、一%

死亡率………三、六%

という数をしめしている。

年号          人口  出征千分比  死亡千分比     村名

寛政三年(一七九一) 三五九   一九、五   一六、九 上久屋 下組

文化五年(一八〇八) 三一七   二二、〇   一五、四 上久屋 下組

天保二年(一八三一) 二六二   三四、四   二二、九 上久屋 下組

明治二年(一八六九) 六一四   一六、一   四五、五     沼須

天保五年(一八三四) 二二〇   二七、二   三一、九    下久屋

弘化二年(一八四五) 二一八   二二、九   五〇、五    下久屋

明治四年(一八七一) 二五五   二三、〇   五一、〇    下久屋

これでは人口が減少するのは当然である。
又、村内に独り者が多く、潰れ家が多く出る、出るから戸数も減少する。利南地区においては明治四〇年にいたり

出生率 三、七五%

死亡率 二、七四%

で人口増加の傾向をしめした。

右の表と現代を比較してみると、出生率は大差ないが、死亡率が三、六%に対して一%以下であるから、この点大いに改善された。医学の進歩のしからしめるところか。
唯出産に関しては同率といってもその内容は大いに異なる。現代は人口調節の時代であり、昔は自然出産である。それが同率であることは、昔は死産、乳幼児死亡の率がかなり高く、満足に育つ児が少いと共に、間引きと称する陰惨な方法が行われたことが当然考えられる。

四、間引き(まびき)

間引を禁止した絵馬が、新治村羽場日枝神社と、片品村古仲の大円寺にある。
それに唯今残っているかどうか不明だが、白沢村尾合の八幡三社にあったと思う。こうした絵馬が残ることは、間引が一般風習であったことを物語る。
土岐領主は文政元年(一八一八)に「堕胎禁止の触書」を出している。
「世に憐むべく憎むべきことは、産みたる児をとりあげず、剰へ殺すありと聞きしが、いつか我が領内にも此の悪風うつりしときく。」

子は公であるから私情で殺してはならない、生まれた子は恵みそだてとらすとさとした。
絵馬があり、藩の公的文書からして「堕胎」は一般の弊風だった。さて「恵みそだてとらす」というがどんな対策をしたろうか。

五、小児養育冥加金制度

今日の生活保護法のはしりであり、民生委員制度に当る養育世話役が沼田藩にできたことは特筆に値する。金持から献金させ「小児養育冥加金制度を設け、子供の養育に困る人に貸して生活を保護した。その役人である養育世話役は五ヶ村から一名づつ出た。

東倉内町勝軍地蔵前の鳥居に、文政十二年世話役ときざまれている。
各村に世話役がおかれたのは嘉永四年からである。この役人達は間引防止にどんな方法をとったろうか。

六、妊身書上帳

村内に妊身(現在は妊娠と記す)の者があるかどうか、毎年正月、五月、九月に書きあげて提出した。その際洩れないよう念を入れて改める。妊身を隠置き、出産があると、当人はもちろん、五人組、親類、村役人まで「急度」仰せ付けられた。

臨産のようなら隣家五人組から村役人、小世話人方へ届け、立会い、
難産の様子なら世話方へ届け立会ってもらう。
流産などになったら、さっそく役所へ届ける。
もし無届なら当人、村役人、五人組、世話役、小世話人まで厳重に吟味して処分する。
届けない中に出産すると始末書を出した。
死産であると五人組連印、名主、組主、小世話人、養育世話人の奥印をつけて報告するという厳重さだった。

妊身書上帳  例

出産八月頃、女房まち(当二〇才)右は村内妊身の者を改めた所書面のとおり相違ありません。村役人世話役の者が度々見廻り心得違のないよう申合せ、出産次第御届け致します。臨産になれば隣家五人組より村役人方へ届け、名主組頭の内立会に出かけます。万一難産の様子であれば世話役人方へ早速申伝え立会いたします。もし村役人方へ無届け流産などにもなったはこの旨早速御注進申上げ、どのような御咎仰せ付けられるとも背くことはありません。仰せ渡され

趣よく申し付けてあります。このことを恐れながら申上げます。

以上

養育役

御役所

出産届

私女房まち儀妊身いたしますので御届け申上げました処、当廿日に女子出産致し、母子共に別条ございませんので此旨御届申上げます。

このように厳重では間引は出来まい。それにもかかわらず幕末になると出生率は減少している。かくれた幾多の理由を考えねばならない。

沼田万華鏡より