凶作(きょうさく)

前回は天保の凶作まで書いたが、それ以後もしばしば凶作があった。

今回は幕末の凶作と、その対策について述べる。

1、幕末の凶作

・弘化二年(一八四五)

この年違作、年貢一分引、一分拝借、八分上納、五年賦(沼須)

注 

違作(いさく)

農作物のみのりの悪いこと、凶作と同意

・安政元年(一八五四)

ひでり、大雨、大風により諸作はずれる。

・安政五年(一八五八)

夏秋共違作、九月十三日山々大雪、子持山に降雪

九月に降雪

当時は旧暦使用のため、九月といっても現代の十月頃にあたる。それにしても随分早い降雪である。以下これに準ず。

・安政六年(一八五九)

天明六年(一八五九)

天明以来の大洪水、九月二十六日大霜、山々大雪

・万延元年(一八六〇)

大風により各地多数の家潰れる。沼須村二十六棟、、栄町十二棟、大破多数。沼須砥石神社の舞殿、諏訪宮の名木桜、栄町地蔵庵の名木桜、升形木戸倒れる。

・文久三年(一八六三)

下久屋村の記録に十一月九日雪三尺(九十センチ)降るとある。

・元治元年(一八六四)

四月十四日、五月十四日大霜、桑青色なく蚕大違い。大小麦焼け二分作位、そのため青麦のまま刈取る八月九日大洪水。

・慶応二年(一八六六)

八月七日大風のため沼須村十二軒、栄町五軒新町五軒倒れ、大破多数出る。

万延元年以来の凶作となる。十年前は大麦一両につき二石だったが当年の八月は三斗、十一月は一斗八升となる。

年貢を見ると、天領、旗本領など他領は五分引なのに土岐領は山付村が三分引、他村は三分拝借、七分上納が並であった。

沼須村では三分五厘借りて五年賦、下久屋では引分がなく、囲穀を借りて困窮人に貸付ける。

天領(てんりょう)江戸幕府直轄の領地

囲穀(かこいこく)非常の用に備えて貯蔵して置く穀物。

・慶応三年(一八六七)

沼須村困窮百姓三十六人に村内より五十両融通して配分する。

下久屋村では囲穀を貸付ける。

七月には城掘川が日でりのため流れぬ日があり雨乞いする。

・慶応四年(一八六八)

打ちこわし騒動のため、金を貸すものがなくなり、村内相談により金を出し合い融通して困窮者を助ける(下久屋)。

戸倉戦争のため人足を狩り出され、その上長雨のため畑の麦は芽を出してしまった。

・明治二年(一八六九)

四月四日大霜、七月十三日天明以来の大洪水、本年大違作となる。沼須村では田畑は二分から五分引、皆無の田もある。

畑作では豆類、稗が七八分作、粟は大違作、その他大違作となった。

年貢の割合は次のようであった。

沼須村 四分引 四分上納 二分拝借

新町 二分引 三分上納 五分拝借

下久屋村 一分引 五分上納 四分は拝借

横塚村 六分引 三分上納 一分拝借

2、凶作対策

天明のききんにこりて、幕府は寛政二年(一七九〇)七月、備荒蓄米を命じている。

文化八年(一八一一)片品村趣本より代官への「郷蔵仕用」によると、貯穀郷蔵として梁間二間、桁行二間、高さ一丈二尺となっている。天領、旗本領は文化八年よりはじまるが、沼田領は文政二年(一八一九)からである。

立岩文書文政二年「御領分村々囲穀仰せつけられ候、その訳は凶年の手当、それ故当村にては粟、麦にて二十俵囲い置き申候」

横塚文書文政二年「当卯年囲穀書上控帳」として、稗十五俵村内に囲い置き、村役人が預って置く。豊作の年は高一石につき一升増穀する。違作には差図を受ける旨、役所へ提出している。

囲穀は保存のきく稗が中心であり、粟、麦、籾もあるが畑作地帯は稗であった。はじめは村役人の蔵に入れておき、段々と各村に備荒貯蓄としての「郷蔵」が建てられる。

下久屋村文書の文政九年には「蔵稗拝借」とあり、横塚では嘉永四年(一八五一)には「村役人預り」安政五年(一八五八)には「御蔵稗拝借」とかわっている。

この郷蔵は、二間三間の六坪が普通であり、横塚村郷蔵は現存し貴重な文化財である。

郷蔵の活用として下久屋村では、文政九年(一八二六)四十人が稗四十四俵借りているのが古い例である。役所へ拝借願いを出し返済する。

横塚文書

天保四年 稗六十俵 三十三人 三ヶ年賦

天保七年 稗三十九俵 三十二人 五ヶ年賦

天保八年 稗九俵 二十五人 五ヶ年賦

安政五年 稗二十俵 十九人 五ヶ年賦

安政六年 稗二十二俵 二十五人 五ヶ年賦

明治二年 稗三十六俵 十八軒

このように各村も横塚同様凶作に役立っている。五十数戸の横塚では平素三十数俵囲ってあった。

軍用囲穀

嘉永六年(一八五三)、黒船来航により軍用囲穀を命じられた。高十石につき米一俵、麦なら二俵の割合であったが、横塚村では米不足の村のため粟四十八俵囲っている。

若者囲穀

万延元年(一八六〇)禁制の踊(芝居)を打ったとして村々の若者一人に籾五升囲置くよう命じられた。他村では籾であったが、横塚村では一人粟六升宛二十七人分を二ヶ年計画にて一石六斗五升を村中で出している。

凶作対策囲穀とまぎらわしいのが「囲籾」であり、これは米作地帯では年貢米を保管する郷蔵が各村にあり、この蔵に豊年には囲籾させて値くずれを防ぎ、凶年には囲籾を禁止して放出させるという価格調整施策であった。

天保のききんには、川場村湯原の各主今井五兵衛はわが家の蔵を開いて米、粟を分配して飢人を救ったが焼石に水であった。そこで役人に年貢米の拝借を願ったがらちがあかないため、決死の覚悟で郷蔵を開き年貢米を村人に分けてやった。死罪になるのは元より覚悟の上であったが村人のすすめによって一先ず村を欠落し、吾妻郡の山中にかくれる。

天保七年から十年後、六十九才の時老病となったので村に戻ったがわが家には入らず河原の庵室に住み、嘉永七年(一八五四)七十七才にて大往生する。

凶作対策として戦前まで大農の家では籾を囲って古米を食べていた。貧乏人は新米、大尽は古々米、これは先祖から受け継いだ生活の知恵であった。

3、絶家

凶作による生活難から「口べらし」として「間引」が行われ子供が少し上に「はやり病」による死亡、生活困窮者の結婚困難から「独り者」ができ、老人家庭が増加し、絶家となり、戸数が減少する。

沼須村文政九年(一八二六)

独り者が百十七軒中二十二軒となる。(一四%)

下久屋村文化五年(一八〇八)七十二軒中十二軒(一七%)安政三年(一八五八)の五十年間に七十二軒から五十五軒と減っている。

横塚村、文政十一年(一八二八)には七十六戸あったが、十年後の天保十年(一八三八)には五十七戸となり十九戸も減っている。天保の凶作を中心として独り老人が死に絶家となった。

絶家となると田畑は親類、五人組の者が耕作し、年貢を出し、諸入用を差引いて残金を村役人に預ける。

この金は困窮者に貸出す。ふだんは村の金融に利用し、利子を増して行く。この仔畑を書いた帳面が「断絶百姓残金書上帳」であり、横塚村には十二冊もある。

嘉永三年(一八五〇)には十六戸の断絶家があり、安政二年(一八五五)の帳面には借用金が四十一両三分余とある。

こうした絶家はどの村にも多く、五人組の負担となるので下発知村ではその負担に耐えられず名主に返上したいと願書を出している程である。

土岐沼田藩では、絶家再興を奨励して、戸数を増そうとしたが、幕末になる程減少している。

五人組は連帯責任制により五軒一組であるが、上久屋村の例によると

    文化五年(一八〇八)  嘉永六年(一八五三)

二戸組             六組

三戸組 一組          二組

四戸組 一組          二組

五戸組 十四組         四組

六戸組 二組          一組

七戸組             一組

計   十八組         十六組

四十五年間における変化は右の図の通りである。

分家すると離れていても本家組に編入されるため七軒組などという大組ができるが、よほどの大農でないと仲々分家は出せない。それよりむしろ絶家によって減少する組が多くなって行く。

家には興亡はあり、徳川時代をくぐりぬけて十何代も続く家というのはきわめて稀有のことであり、容易ではなかった。

わたしは、お盆、お彼岸に先祖の墓におまいりするたびに、この先祖はよくも天明、天保のききんを生きのびてきたものと心よりその苦労、骨折を偲ぶのであり。

沼田万華鏡より