・書名 「上州沼田の勝軍地蔵」

・著者 一文字欽也

・発行 昭和十二年十二月十八日

・発行所 夫人往来社

・体裁 四六判 五四ページ 定価十五銭

前記勝善寺の本尊は勝軍地蔵である。

一般的には勝軍地蔵といえば、軍神として尊崇される地蔵菩薩で、鎌倉時代以降わが国の武家の間で信仰され、甲冑をつけ、右手に錫杖を持ち、左手に如意宝珠を捧げ、軍馬にまたがるお姿をしている。

京都市右京区嵯峨愛宕町の愛宕神社が全国に愛宕社の本社となっている。この社は古く、遠く奈良時代に和気清麻呂が勅命をうけて造営し、平安京となってからは王城の乾(西北)の鎮護として崇敬されている。この愛宕神社が本地仏として勝軍地蔵を安置している。

今一社、有名なのに東京都港区芝愛宕町の愛宕山に鎮座まします愛宕神社がある。この神社のご本体は、徳川家康が本能寺の変の際、難をさけて三河へ引上げる途中宇治信楽の多羅尾光俊の邸に宿り、同家に伝わる源頼朝が護身の本尊という勝軍地蔵を安全守護のためにもらいうけてきた像である。

後に家康、江戸において神社を造営したのがそもそもの由緒である。

ところが沼田勝善寺の本尊勝軍地蔵は前記二社の勝軍地蔵とはやや趣を異にする。結果的には同じになるが、沼田の場合は一つのエピソードがからんでいる。

以下前記の「上州沼田の勝軍地蔵」誌を参考に述べてみよう。

時は天正十二年(一五八四)四月八日のことである。

豊臣秀吉は十万と称する大軍を自ら指揮して、美濃から楽田へと押寄せ長久手に陣を進めた。

一方これを迎え撃つ徳川家康は手兵わずかに三千足らずを率いて浜松を発地、三川を経て桑名にいたり小牧山に陣を取った。

これが二大英雄が雌雄を決する小牧長久手の戦である。

十万の大軍に対する片や三千では勝敗は自ら決っているようだが、そこは戦機の妙というもの、秀吉の大軍が必勝を期して悠々と迫ってきたのに対して家康の兵は決死の覚悟でその中に斬り込んでいった。互いに奮戦、斬りつ斬られつ長久手の原を血に染めた。

さっきからあまり働きもせず、鳴をひそめて一進一退の隊勢をとっていた秀吉の雄将池田は隙を見て家康の前隊を乗り越えて中軍に襲いかかった。急を突かれて不覚にも家康の中軍は崩れ始めた。この時早くも状勢を知った家康の麾下菅沼藤蔵は、単騎くつわを返して池田勢の中に飛込むが早いかアッという間に三人の池田方の兵は斬り下げられてしまった。これを見た藤蔵の率いる一隊は我おくれじとばかり池田勢に疾風の如きいきおいである。勝に乗じた家康軍は一挙に敵軍を攻撃して遂に大勝をおさめることができた。

勝ち誇った家康は、全軍に小幡の塁まで進み陣取ることを命じた。

やがて本日の第一殊勲者藤蔵は家康に召され御前にまかり出た。「藤蔵、余が今日あるを得たのは汝の並々ならぬ奮戦の賜ぞ、余は改めて汝に礼をいうぞ」家康は心から藤蔵に対して礼をいうのであった。

これを聞いて藤蔵は「有難きお言葉を戴き、それがし身にあまる光栄と存じます。しかしながらあの時の戦は私一人のいたしたものではありません。実は………」と当時の奮戦振りをことこまかく言上した。「池田勢へ斬り込んだ時の私は、いつもの私とは人が違うような気がいたしました。何か不思議な力の加護があったような気がしましたので戦がすんだ後、再び現地を検分したところ最初の一太刀斬った処にこの石の地蔵様が座しておりました。」と小さな石地蔵を家康の前に差出した。「なお不思議なことがもう一つあります。実は私が池田勢に斬り込んだ時、部下の者共は誰もが私だと思わず、見かけない大兵の男がかけ込み、阿修羅のように敵を粉砕しているのが目に入ったそうです。はて何者だろうと良く見ると背中に桔梗の小旗が立っているので改めて私ということがわかったと申しております。この話を聞き、又地蔵様を発見した事と思い合わせて私もなにやらこの石地蔵のご加護があったと思っている次第です。」仔細を聞いた家康は「それは不思議な話、それが事実だとすればこの石地蔵は、わが軍の守護神である。戦に勝つ石地蔵だから今日から勝軍地蔵尊と呼ぶとしよう。」と感に入った。

傍にいた大久保忠隣がすかさず「これはわが軍に奇瑞をもたらす守り神であるから陣取った時は陣中に祀り、戦にのぞんでは最も縁の深い菅沼殿が背負って出陣してもらうことにしてはいかがですか。」と申し上げた。

この話がいち早く陣中に伝わり、われもわれもとこの勝軍地蔵に戦勝を祈願するのであった。

以来藤蔵はあらゆる戦にこの地蔵を背負って出陣した。この守護神ある限り絶対敗けないという信念が身内にみなぎるのは一人藤蔵にのみ止らず徳川勢全軍の士気を高揚させた。又事実これより徳川軍は敗けることはなかった。

世はすべて家康の手中に帰し、稍平和にならんとする時、藤蔵は姓を土岐定政と改め山城守に任ぜられ従五位下を贈られたが惜しくも四十七才の若さで病のため死んだ。時は慶長二年(一五九七)三月であった。

この勝軍地蔵は徳川家の護り神として大切に祭祀されていたが定政死んでから百四十年後、定政の子孫頼稔が沼田城主として封ぜられるにあたり、特に徳川家より祭祀料として五千石宛付与されて土岐氏に托された。

以上が「上州沼田の勝軍地蔵尊」誌の記載内容であるが、何やら多分に講談調でどこまでが史実であるが判明し難い。

仮に現存する石の地蔵尊が前述の由緒ある「勝軍地蔵尊」とするならば、たとえその形容はどうであろうと、これは土岐氏にとってはかけがえのない宝物で、当然本殿の中央に篤く祀るべきであろう。

しかし現在愛宕殿(東禅寺の本殿)には立派な厨子に安置してある愛宕尊(勝軍地蔵尊と異名同体)を中央も祀ってある。

定政が背負って戦場に臨んだ石の地蔵尊は、城中奥深く安置して、祈願所の本尊は別に京都か江戸の愛宕神社より勧請し、一般信仰の対象としたものか。

とすれば何時頃、誰によってこの様な形式が採られたのか。更に憶測を進めると、家康とあれ程のかかわり合いを持ち、しかも長久手の戦以後、徳川氏の守護神として尊崇され、土岐氏沼田襲封の際五千石の祭祀料を付されたという石地蔵(勝軍地蔵)が、現在見られる様な処遇を受けている事実はどうも納得がいかず、何やら作為の跡が感じられぬでもない。

当時、将軍家より拝領したものを形が粗末だからとばかり、立派な愛宕尊像に取換えるということは大変な行為である。形の問題でなく信仰の拠点はその由緒、事実にあるべきでいかなる事由、手続によって本尊をとりかえたか、それを調べる資料とて無い。

なにやら伝えられるところと実状があまりかけ離れているので釈然としない。どなたかこの点についての考証をお持ちでしょうか。

勝軍地蔵尊、愛宕尊、両方とも前号に掲載した写真であるが、今改めて比較してみよう。

前者は、長久手の戦の時奇瑞を現した地蔵尊で、家康はこれに「勝軍地蔵」と命名、後に土岐頼稔に賜ったという由緒あるもの、後者は現在本殿中央に祀られている「愛宕尊」である。「愛宕尊」は勝軍地蔵と異名同体であるからこれを「勝軍地蔵」と称しても間違いではない。しかしこの像に関してはなんの由緒も伝わってはいない。