驚石橋から吾妻中之条へ向う道路、川田小学校裏の交叉点を右に折れ約百メートル進むと左手にすぐ見えるのが川田神社の大けやきである。

周囲の眺望が大きいのでさして大木とは思えぬが、近寄って見るとこれはこれはと驚くばかり、須賀神社の大けやきと兄たりがたく弟たりがたい。しかも樹勢きわめて旺盛で木の肌もまだ若々しい感じがする。

所在地  沼田市下川田町四六五番地
指定   昭和三〇年一一月八日
管理者  沼田市

これほどの名木で、しかも交通極めて便利なのにあまり人に知られていない。

川田も歴史の古いところでこの付近一帯見るべきものがいくつかある。半日の行程で充分観察ができるので是非すすめたい旧蹟地といえよう。

目通り    九・四m
根廻り    一三m
樹高     二二m
枝張り東西  三二m
   南北  三三m
推定樹令   五〇〇年

もちろん川田神社のご神木として崇拝されている。この木の伝説に、昔、若狭の国の八百比丘尼という尼僧がこの地へ巡賜のみぎりに植えた三本のけやきの生き残った一本だというのがある。八百比丘尼は何百年たっても年をとらず、道をかけ、橋を渡し、病苦の人を救い、多くの人々を助けたという。

又一説にこの村を開発した人の墓を後世の人に知らせるために、墓印として植えたものだというのもある。いずれにしても朝な夕なこのけやきは川田一帯を眼下にながめ世の移り変りをじっと見守っていたのだろう。

このあたりから沼田を眺めた景色は大きい。特に駅付近一帯の発展状況を見るとこの五十年間の変貌をつぶさに感じる。上越線が沼田まで開通したのが大正十三年、当時は一面の青田だったのによくもまあこれ程人家がふえたものと唯々驚くばかりである。

川田神社の東、約百メートルのところに遷流寺がある。このお寺には円珠尼の墓や、子育観音というめずらしい石像が見られるので是非足を向けたい。

寺の前が川田公民館、その前の細い道を五〇メートル程東へ進むと、荒れはてた一宇がある。内宿の薬師堂といい堂の左裏手に一群の石塔があるが、その中にかの有名な「加沢記」の筆者、加沢平次左エ門の墓が見られる。平次左エ門は真田五代伊賀守信直の家臣で当時祐筆をつとめ史学に精通していた。主君没落の後川田に遁世して元祿五年六十五才でこの地に歿した。墓はきわめて小さいので戒名の「覚誉的本居士」という文字を頼りに探して見ることだ。なお連絡所前には平次左エ門の事蹟を記した説明板が立っている。

この付近一帯は旧川田城の城址である。今はそのあとも殆んど見られず、よほど事情に詳しい人の説明をきかぬとちょっとわからない。連絡所と道をへだった西側に、郷土史研究で名のある見城文一郎氏のお宅があるから立寄ってお願いしたら快く付近の解説をしてくれると思う。

このあたりバスの交通はきわめて便利だが、史蹟視察はやはり足にまかせて巡回する方が効果的であろう。 

沼田万華鏡より