群馬県沼田市倉内にある沼田公園は2017年続日本100名城(138番)に選定された沼田城址。2017年現在も発掘調査が行われており、数多くの石垣等が見つかっています。

その沼田公園には美しい桜の木が多く育てられており、春になると沢山の人々が訪れる花見スポットでもあります。一角に大きくそびえる通称「御殿桜」という桜の木があります。「沼田万華鏡」八号には掲載されてた、この桜を題材とした「御殿桜」意外史という一文を紹介させていただきます。
 

 
 

「御殿桜」意外史 付 ここは「かかあ天下」発祥の地

月夜野在住のある人の訪問を受けた。

それは沼田公園の西隅にあって、来る春毎にみごとな花を咲かせ、市民より「御殿桜」と親しまれている樹齢四百年余の古木についてである。

その人は語る
 「わしの知る限りではのう、花が満開の頃毎年観にくる夫婦者なら一生仲良く暮らせるし、独りものなら必ず良縁に恵まれるという功徳がある樹だよ。だがわけもなく枝などを折ろうもんなら、それこそ生き別れになったり、良縁なんぞ絶対にめぐり逢えねえ」
と。そして更に
 「そういうのもこの桜はなあ、真田信幸の妻小松姫(大蓮院)が輿入れの時に、家康より贈られ密かに植えられた大切なもの、だから信幸がお城を改築しようとした時切ろうとしたら、小松姫がこれだけは何としても残してくれと頼んだもんだってのう」と言う。

小松姫の肖像画(大英寺蔵)
小松姫については別記事に詳しく述べられている。天正十七年、家康の養女として信幸に嫁して以来、夫は徳川家、父と弟は豊臣家という間にありながら、節義を守り、心固く男まさりの、しかも夫には心から尽くした貞節の女として、沼田に在ること十余年ながら、信幸をして名君たらしめた内助の功は計り知れぬものがあったと言う。妻の死に対し、夫信幸が
 「我が家の灯火消ゆ」
との長嘆息は、別記事にもある通り。人間として、夫として心からの叫びであり、小松姫の偉大な存在を示した言葉である。

御存知のように上州の大名物「からっ風」「かみなり」そして「かかあ天下」のうち、この「かかあ天下」のふくむ意味をもっとも深く分析して考えるならば、小松姫こそは、まさしく「かかあ天下」の名にはじない。上州トップ女性に値するのではなかったろうか。

 「かかあ天下」と言うことは見方によっては色々な解釈が成り立つ。
(A) 亭主を尻に敷く
(B) かかあ殿下
(C) かかあ天下一
の如くである。これを亭主の側から見れば、(A)は全く頭の上がらない状態で男としては処置なしというところである。それに較べて(B)はかあちゃんがうんと稼いでくれる。そして俺にもつくしてくれるという全く有難いかあちゃんというところか。更に(C)にいたっては(B)とも若干ニュアンスが異なる。俺が今日あるのはそれこそかあちゃんのおかげだ。うちのかあちゃんこそ天下一のりっぱな女という心境であろう。

(B)と(C)には(A)に見られない筋の通った、時、場所に不変の、そして世の亭主殿の反撃を受けない一つの流れがある。それは当然「かかあ天下」の真意とならねばならない。勿論、小松姫の生き方によって証明されていることではあるが。

ところでこの「かかあ天下」は何も上州だけのものではない。甲州にでも、又、千葉でも「房州名物、かかあ天下に西っ風」というのもある。

しかしそれがいつの間にか、上州だけのものの如く宣伝され今では上州だけの通り相場になってしまった。

ひとつの言葉が、あたかもそのものの特有の様に定着してしまうには、それだけの理由を持っている。 つまりその言葉の裏付けになる実証的な事実と、その事実を強める時の社会的反映、特に経済的要因と、風土的影響を受ける場合がある。

もともと上州の主要産業は養蚕、製糸、そして織物であった。当然その内容からして、経済的に女性が立役者であったことは言うまでもない。それぞれの産業が分業形式で成り立ち、みんなの立場が同じである時には、連帯意識として義理人情が厚くなる。加うるに「からっ風」は女性をしんから強くせしめ、日照時間が高知に次いで第二位という実態は、人間を淡白に明朗に、そして「かみなり」の如きは、言葉を大きく、荒々しくしかも短気な上州気質に自然と作り上げてしまったのであろう。

小松姫の挿話を読む限り、これらの気性が、多少の長短はあってもそなわったと思われる。だとしても小松姫の生活行動をマイナスに評価するものはなかったはずだ。

小松姫が一本の桜でも大切にした心情に、厚い義理人情が加わったとするならば、その底流には人間に対する深い愛情がこめられていたと思われるから、前述の「尻に敷く」生きざまなどは露程もなかったであろう。もしもそうでないならば小松姫が夫をして名君たらしめることはとても出来なかったに違いない。愛情こそは「かかあ天下」の本領であり、本筋であると思う。

以下略