◯城主夫人としての大連院

小松姫、後の大連院が沼田城主信幸のもとに輿入れをしたのが、前述の通り天正十七年(一五八九)ついで、天正十九年(一五九一)長女 まん姫(まつ姫?)二年後の文禄二年(1593)二女 まさ姫更に二年後の文禄四年(一五九五)長男 仙千代(後の信吉)翌年慶長元年(一五九六)二男 百助(後の信政)ついで三年後の慶長四年(一五九九)三男 越後(後の信重)と子どもをもうけた。夫婦仲むつまじく賢夫人の誉れも高い大連院の内助の功もあって、夫君信幸沼田治政は着々とその効をあげ、名君の名を高くしたのであるが、信幸が沼田城主として入城以来二十六年の元和二年(一六一六)、突如幕府の命により信幸は信州上田城に移封となった。


沼田城址公園

もっとも信幸は慶長五年(一六〇〇)からは上田、沼田を兼ね治めていたから、沼田治政に専念できたのは天正十八年から慶長五年までのわずか10年間に過ぎなかったのである。

信幸が天正十七年に城主となってからの天下の形勢は極めて激しい変動をしめした。

慶長五年九月 関ヶ原の戦

慶長八年二月 徳川家康江戸に幕府を開く

慶長十九年十一月 大阪冬の陣

元和元年五月 大坂夏の陣、豊臣氏滅亡

元和二年信幸上田移封と共に当然大連院は沼田を去る。そして四年後の元和六年にいたり、江戸に居った夫人は病にかかり、上州草津の湯に療養すべく、中山道を下る途中、武州鴻の巣において病あらたまり、遂にこの年二月二十四日、四十八才をもって卒去されるのであった。

とりあえず現地において荼毘に付し、遺骨はやがて上田の菩提寺常福寺(後に芳泉寺と改む)沼田の正覚寺 鴻の巣の勝願寺とに分骨して、三ヶ寺に葬る。本塋は芳泉寺である。

夫人の戒名は
大連院殿英誉皓月大姉

長年苦楽を共にした夫人の長逝に遭い、夫信幸はその死を惜み「わが家の燈火消ゆ」といって嘆息したという。

後、信幸は上田より松代に移されるや、上田の菩提寺である大英寺を松代移築し夫人の霊を弔ったが、惜しくもこの寺は明治維新の際に維持困難となって堂宇を取りこわし、大連院の霊屋を改造して現在の大英寺本堂としている。

この霊屋兼本堂を万年堂と称しているが、それは千万年を経るととも祭祀を断たぬ願いをこめてのことという。

一方沼田鍜冶町正覚寺にある大連院の霊屋は、通称「おたまや」茅葺三間四方平屋建てで、墓の右手の一段高いところにある。中には何もなく、建物も腐朽甚だしく由緒深い文化遺産とは思えぬ荒廃振りが惜しまれる。

伝えるところによると、正覚寺は、かっては現在の観音堂裏にある地蔵の立っている個所にあった小寺で、後に大連院の尊崇を受けて現在地に壮大な寺院を寄進されたという。

同寺には大連院の寄進による十一幅からなる「闇魔十王図」・・・・・・沼田市指定文化財が現在も寺宝として秘蔵されている。

沼田万華鏡より