沼田城の抜穴

昭和五十三年三月発行の「沼田万華鏡」第八号に、岡田みねさんが、「横穴幻想」と題する一文を寄せられた。

岡田さんの生家は榛名町の栗原家である。この生家の庭の片隅に横穴があり、その穴は東の方へ延々と続き榛名新道の下をくぐり更に現在の公園の方まで達しているらしいという内容の話であった。

果してどの位の深さがあるのか見当もつかぬが何か異常に興味をそそる事実である。

地下水を得るためとか、養蚕用の桑を収納しておくためとかそんな生活上必要の横穴ではないらしい。

とするとこれは沼田城の抜穴ではないかという想像が成立つ。

軍略家であり政治家であった真田初代信幸が、公園地先へ築城するとき、万一を慮って抜穴を用意したということは充分考えられる。

仮に落城という事態に陥ったとき、密かに城中よりこの抜穴を通って外部に脱出するためのものだが、問題はその抜穴が地表へ出る地点にある。うっかり敵が待ちかまえているところへぞろぞろ顔を出したら、それこそ一網打尽となる。

ここで考えられるのが栗原家である。同家は甲斐の武田氏の支流で、世々同国小梨郡栗原村に住居していた。武田氏滅亡に際して沼田へ移り姻戚関係であった真田氏の客となったが、後民間に下った名家であってみれば、この家の庭へ逃れる位安全の場所は他にない。

こんな条件を勘案してみると、同家にある横穴が城よりの抜穴であったとしても不思議はない。

しかしこの横穴の行先を確めた話はまだ聞かぬし、現在はその入口も密閉し、所在を明らかにしていない。

沼田城の堀は水濠か空堀か

沼田城をめぐる堀は初代信幸時代、即ち築城された慶長十一年(一六〇六)に完成したと見てよいだろう。この当時の堀はやがて天和二年に城が破却となった時ことごとく埋め立てられてしまった。

それから二十二年後、新しく藩主となった本多伯耆守正永が、この埋められた堀を再び掘りおこして城郭の体裁を整えるのだがその当時の掘の規模については記録があるので規模の程がうかがわれる。その数値は初期のものと同一であるとはいえないが、それでも大体の形は知ることができよう。

さて問題は、これらの堀は、

・水が湛えられていたか
・全くの空堀であったか

という点にある。

たしかに古くから「沼田のお城の堀は空堀であった。」といわれている。しかし沼田の命の水であるあの城堀川の水量から推察して果して空堀であったろうかと一応疑いたくなる。

土岐時代にあっては、あるいは伝えられているところの空堀であったころも果して空堀であったろうか。ことによると満々と水を湛えた水濠ではなかったろう。

水濠か、それとも空堀か、これを解明するのは、現在わずかに残っている堀の底の土を地質学的に研究してみる以外にない。どこか一箇所深くボーリングして底土を分析してみたらある程度のことは判明すると思うが………。

沼田城構築の資金源

真田信幸が、はじめて沼田城主となったのは天正十八年(一五九〇)であった。当時の利根沼田地域は、うち続く戦乱のため疲弊その極に達していた。若い城主信幸はこの実情に接し先ず手がけたのは民力の増強であった。

諸税の減免、水利の開さく、田畑の開拓、市場の設立、物資の集散等に深く意を用い、鋭意領民の生活向上に努力したが、沼田に在城して治政に専念できたのは慶長五年までの十年間である。それ以後元和二年(一六一六)までの十六年間は上田と沼田を兼ね治めていた。

沼田統治は合計二十六年の長きにわたっていたとはいえ、その間実にめまぐるしい程の事件に遭遇している。

◯天正十八年(一五九〇)信幸沼田城主となる。二十三才

◯文祿二年(一五九三)従五位下に叙せられ、伊豆守に任ぜられる。 二十六才

◯慶長五年(一六〇〇)

・上杉景勝討伐の軍に従う。この時石田三成関西に於いて挙兵する父昌幸、弟幸村と袂を分って敵味方となったのはこの時である。信幸は徳川家康の軍に従い、関ヶ原善戦
・その功によって父昌幸の居城であった上田城を賜り、六万三千石加封 三十三才

◯慶長十九年(一六一四)

大阪冬の陣に参戦 四十七才

◯元和元年(一六一五)

大阪夏の陣に長男信吉、二男信政を参戦させる。

◯元和二年(一六一六)

沼田城を信吉に与え、信幸は上田城へ移る。

以上で判明するように沼田統治の間に数回にわたって参戦している。この戦費の支出は仲々容易ならぬものがある。

しかも信幸は、慶長七年から十一年にかけて居城の拡張、天守閣の構築という大事業を遂行している。一口に城といってもいろいろの段階があるが、沼田城の天守閣は九間、五層という大規模出会った。従ってこの城は後に関東八名城の一つにあげられる程の壮大さを誇っていた。

一体、信幸は重なる戦費と城の構築の莫大な費用をいかにして調達したのであろう。

この点については本誌第十号にもちょっとふれたが、なお信幸は上だから松代へ移るとき沼田から十万両という大金を運び出しているし、その上、二男信政も沼田から上田へ移るとき更に八万両を持ち出している。

そこで考えられることは、一体どうしてこんなぼう大な資金を得られたのだろうという点だ。

もともと信幸は蓄財の才に長けていたというし、利根の地は表高に対して地積の余裕があり、しかも開拓によって相当の増収が見込まれたと思うが、この二点だけで果してこのような大事業の実施と資金の蓄積が考えられたろうか。

なにか秘密の資金源があったにちがいない。公的には発表できぬ内緒の収入が………。

「沼田領品々覚書」の中に、戸神山、師山、東小河山より金小日向山より鉛、大崎山より銀、藤原山、腰本山より銀、以上の七ヶ所の山々、昔は盛んに堀っていたが、伊賀守時代になると殆んど産出しなくなった………」云々の記述がある。これから察して信幸は利根の鉱山開発に着目し、発掘、冶金に全力を注いだと思われる。そして乱掘に次ぐ乱掘でおそらく真田時代前期で大方は掘り尽くしてしまったと思われる。もともと鉱石が出るというだけでそんなに豊富な鉱脈があったわけでもないので永続性はなかった。しかしこれらの鉱産物が真田氏のふところを大分うるおしたことは充分想像ができる真田氏は本来甲斐の武田氏の武将であり、その武田氏は鉱山については有名な専門家である。なにやら一連の関連性が考えられるのも興味がある。

以上の話はいずれも幻想的な物語で、史実とは無関係であることを重ねて付記する。