沼田に大きな足跡を残した真田氏とはどういう家柄か、ちょっと触れて見よう。現在(昭和五十一年)NHKで放送している「真田十勇士」によってこの姓は一般に広まっているし、かつては立川文庫による「猿飛佐助」「霧隠才蔵」お忍術物語で真田幸村の名は誰一人知らぬ者はない程有名となった。

又当沼田に於いても毎年春秋のお中日に、月夜野茂左エ門地蔵の縁日があるが、この茂左エ門は真田伊賀守という殿様が悪い政治を行ったため幕府へ訴え出た罪により、はりつけの刑に処せられたという話はよく知られている。

ところがこの真田氏について沼田、上田、松代にそれぞれ昔話があるというもののその関係はどうかの点になるとそろそろあやしくなってくる。一人一人については後に述べるとしてここでは真田氏の一般的なことについて記して見よう。

真田氏の家は遠く清和天皇よりはじまるといわれる名家である。天皇の第三皇子貞元親王は別に滋野親王と号し、その子が長野県海野里に住んで海野小太郎、又の名を滋野幸恒と名乗った。

それから二十代目の幸隆なる人が同県真田の里に移って以来、姓を真田と改める。

真田幸隆は甲斐の武田信玄に仕えて大いに武名をあげ、武田二十四将の一人となった。三人の男の子をもうけたが、長男信綱、次男昌輝共に長篠の戦いで討死したため三男の昌幸が家をついで相変らず武田氏に仕えていた。

そのころ上州沼田の里では城主沼田氏の内紛につけこんで越後の上杉、相模の北条が盛んに勢力争いをしている様子を遠く甲斐の国から眺めていた武田信玄は上州近くに住む三田幸隆に命じて兵を進ませた。

幸隆は昌幸と共に吾妻まで攻入り岩櫃城を攻略したが、信玄は信州の備えのために真田親子を呼びよせたので海野兄弟が代って岩櫃城を預った。

一旦は引き上げたものの真の目的は沼田城の入手にあったので再び昌幸が中心となって利根に侵入し、利根川の西、川田、名胡桃、小川等の要害を手中に収め、対岸の沼田をねらっていた

このころはすでに越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄共にこの世にはなかったので真田氏は武田の代表勢力とはいうもののある程度は自身の欲望によって残る北条氏と対抗するのであった。

やがて世が移り豊臣秀吉が天下を平定するにいたり、沼田城は改めて真田氏の手中に収まることになった。時に天正十八年である。

これより先天正十一年(一五八三)に昌幸は上田に城を築いていたので、新たに入手した沼田城は嗣子信幸にあずけ、おのれは上田城にあって次子信繁(この人が有名な幸村である)と共に声威をはっていた。

上田城初代城主  真田昌幸

沼田城初代城主  真田信幸

信幸時に二十五才、その前の年に徳川家康の養女小松姫と結婚している。

信幸はその後二十六年間沼田城主として統治にあたるが実は沼田に専念できたのははじめの十年間だけで、残る十六年間は上田城を兼ねて治めていた。それというのも父昌幸が弟幸村と共に石田三成に組みしたため関ヶ原合戦(慶長五年)に破れて失脚したからである。

沼田、上田を兼任していた信幸は元和二年(一六一六)幕命により上田へ移封を命ぜられ二代城主となる。時に五十一才であった。

そのため沼田城は長子信吉にゆずられ、その後三代、四代と経て五代信直の時に没落し、沼田における真田氏系統は絶えてしまう。

一方上田城に移った信幸はそこに居ること七年、元和八年には又もや松代十万石に移封となり九十一才で没するまで初代城主として善政を布いた。

      初代沼田城主

信幸……… 二代上田城主

      初代松城城主

と三転した信幸の後継者はその後現代の当主行長氏まで十二代のながきにわたって続いて居る。

一方上田は信幸が松代へ移ったは仙石、松平と続いて明治維新になるが、統治期間の短いのにもかかわらずこの町の真田昌幸、信繁に対する郷愁は実に強い。それというのも沼田と同じように真田氏の統治力は極めて強く、しかも天下の徳川家康を相手に一歩もゆずらず、遂に望み果てずして散り果てた悲しくも勇しいイメージが残っているのかも知れない。