現代のように産業、経済が都市形成の重要なポイントになっていれば沼田のような地形はあながち有利とはいえないが、遠い戦国の時代にあっては四辺山を囲らす天険の地、沼田盆地は現在よりはるかに重要性を持っていたかも知れない。他領域との交流連帯がなければ立ち行かぬ現在の経済体制にあっては交通不便という状態は致命的の欠陥であるが、戦いに明け暮れる戦国の世においてはむしろ交通が不便のことは要害の地として有利な条件であった。

利根郡全体が四囲から隔絶しているその中で、三方が急峻な沼田高台は正に絶好な戦略地点となり得る。広々とした平野に城を築き、そこに城下町を発展させ、産業振興に意を注いだのはずっと後世になってからのこと、戦国時代はいわゆる三城に拠って防備第一主義をとっていたから、各武将は好んで天険の地を選んだ。沼田城はそんな点から諸将垂涎の的であったろう。城を築くに必要な石材、木材等の資材には事欠かないし、食料も概ね自給ができる。すべての点に、条件が整っていたのが沼田であった。

大体戦国時代の諸将は好んで盆地を選ぶ傾向が強い。天下に号令する大英雄は別として地方的に播居する場合、盆地は何かにつけて都合がよかったのかも知れない。

以上沼田という一点の諸条件について述べたが、広く他地区との関連に於て沼田を観察すると、位置的には表日本と裏日本の中心にあり、しかも関東平野の北方の重鎮として、表日本側から見れば裏日本の勢力に対する防禦点となり、裏日本側から考えれば表日本へ進出する拠点としての価値が高い。

具体的にいえば越後の上杉が関東制圧を実行しようとするならば沼田はその前進基地として重大な個所となるし、一方関東に威を張る北条にとって見れば北方の抑えとして沼田はこれ又必須の防衛拠点である。表日本と裏日本を結ぶ三国峠道は両勢力の接点であり、沼田城はその死命を制するポイントとして認められていたのだろう。

更に交通の点から見て、前記三国街道と、吾妻を経て信州に通じる裏街道と、檜枝岐を過ぎて会津へ向う山道との分岐点にあたる。

こう考えると昔の沼田は場合によると前橋、高橋より軍事上の価値は高かったかも知れぬ。

世がくだって豊臣制覇の時代になると政権が関西に移ったので沼田はさして重要地点ではなくなったが、やがて徳川が天下を取り、江戸に幕府を開いてから再び沼田の地位は脚光を浴びるにいたった。

これほどの戦略的価値を持つ沼田が、外様大名の有力者である真田氏の手にゆだねられている事実は、いつの日か、何らかの形で、改革されねばならぬのは当然の帰結であったかも知れない。