真田昌幸が武田勝頼の命により、天正八年六月(一五八〇)沼田における北条氏の勢力を駆逐して無血入城し、藤田能登守信吉を城代とし、これに配するに海野能登守輝幸と、旧沼田氏縁りの金子美濃守を起用したが、前述の通り翌九年にいたり平八郎を討ち、更に同年海野輝幸を無残にも憤死せしめた。誠に多事多難、心落ちつかぬ明け暮れの日々で、このころ昌幸は概ね吾妻の岩櫃城にあり、遠く利根、吾妻北毛の地をにらんでいたが、ここで振りかえって天下の情勢にちょっと目を移して見よう。

変転極りない戦国時代の様相と各武将の興亡をどうしたら端的にとらえることができるか、これは仲々むずかしい仕事だが、一応時間的の推移と武将の勢力転移を年表と略図によって整理するのが案外効果的かも知れない。

・天正六年(一五七八)

沼田城は北条氏政、氏直等の勢力下に入る。

・天正八年(一五八〇)

真田昌幸、武田勝頼の命により沼田城の北条氏勢力を屈服せしめ無血入城する。

・天正九年三月(一五八一)

沼田氏十四代平八郎景義は父祖の居城沼田鞍打城の奪回をはかるが、伯父金子美濃守の奸計によって憤死する。これで多年にわたり沼田を領有していた三浦沼田氏は完全に抹殺され、新しい局面を迎える。

・同年十一月

海野能登守輝幸、はかられて戸神原で討死する。

・天正十年三月(一五八二)

甲斐の勇将武田勝頼、織田信長と徳川家康の連合軍に滅される。

この一戦によって甲斐源氏の名家武田氏は滅亡となるのだが、武田氏滅亡の大きな影響を受けたのがその出先である真田昌幸で多年にわたり忠勤をはげんできた主家がなくなっては木から落ちた猿も同然、なす術もなく呆然となったことだろう。

こうなっては現在おのれの勢力下にある沼田城の保持も危くなってくる。といって昌幸独自の力で織田、徳川二軍を相手どって一戦を交える程の強さもない。そこで機を見るに敏な昌幸はこの時天下の情勢を適確に判断していたにちがいない。すべては時の流れにまかせて強攻策をとらず、この際は織田、徳川方に帰順するのが得策とばかり隠忍自重していたと見るべきであろう。

果して沼田における真田氏方の滝川儀太夫が沼田城代に任命されたのである。昌幸にしてみれば多年にわたって抗争の結果入手した沼田城を見す見す取りあげられる無念さは身にこたえるものがあったろうが、強大な織田氏勢力には心ならずも屈服せざるを得なかった。

・天正十年三月

信長、滝川儀太夫を沼田城代とする。

ところが運命とは誠に皮肉なもの、西に東に新しい勢力を伸して今や天下統一の夢もまぢかいに実現しようとする織田信長が勝頼を亡ぼしてからわずかに八十二日目の六月二日、本能寺において逆臣明智光秀の手にかかり非業の最後をとげようとは誰が予測し得たであろう。

ここにいたって天下の情勢は大きく変って行くのである。そうした時世にあって、沼田の城は一体どんな意味を持っていたのであろうか。関東北辺の小さな山城にしかすぎぬ鞍打城が、日本全体の動きにどんな存在価値があるのか、これから繰り広げられる歴史の流れにあってなんの位置づけが考えられるかしばらくは信長没後の諸将の動静に着目して見ることとする。

応仁の乱以来百年にわたる戦国乱世の代も次第に一つの安定した勢力による天下統一を望む趨勢が生じ、諸国に播居する諸将がわれこそ制覇の業を成し遂げんと都を目指しそれぞれに兵を起しはじめたのは本能寺の変を去ること二十年程前からである。しかしこれとても誰でもというわけには行かない。地の利、家柄、武力、近隣関係色々の条件がそろわぬとかえって命とりとなってしまう恐れがある。こう考えると厳しい条件下にあってなおも中央に兵を進められる武将はさして数多くはない。東に今川、武田、北に上杉、などがその代表的な例であるが、今川は桶狭間において体あたり捨身戦法の織田信長に敗れ去り、武田、上杉は両者共地方的な戦いにその力を燃やしつくし、その他の武将はおのが領地の保有に汲々としている程度で仲々一頭角を現わすことは容易の業ではない。こうした状態にあって今川を破った信長はその後の彼の動きを見るとき、これは近代日本の歴史を飾る一大武将であるといえよう。勇猛にして果敢、独創的な戦法と戦機を見る判断力は抜群であった。それと当時日本に伝来し普及し始めた鉄砲という火器の積極的応用は戦争に一つの転機をもたらした。まことに時代を拓き、時代を創る新しい型の彼の性格は一面に於ては極めて独裁的であると共に一面に於ては旧勢力打倒に大きな効果をあげる基礎となっている。やがてはそれが仇となり身を亡ぼしたとも考えるが、とにかく偉大なる英雄に成長した。

その信長が突如なくなった後は一体どうなるか、当時に関東周辺に威を張る諸将に目を移して見よう。

先ず北に上杉氏、かの有名な謙信は四年前に亡くなっているが沼田への未練は強い。

西の真田氏は岩櫃城にあって一旦は手中に収めた沼田城を拱手傍観、なんとかして再び領有したいものと願っているが相手が織田氏とあってはうかつに手も出せない。

更に南小田原にある北条氏、これもかつては沼田城をその勢力下に収めたが真田氏のために奪われ、折あらばなんとかとりもどしたいとねらっている。

一方かつての武田領である甲斐の国は今や徳川家康が本能寺の変後どさくさにまぎれて攻略してしまった。

いずれにしてもこれらの武将は独力を持って中央に兵を進め天下制覇を志す野望は考えられない。むしろ動乱に乗じて漁夫の利を収めようと近隣の弱小国をすきあらばとうかがっている程度である。

由来沼田の城は

・上杉氏……永禄十二年 天正六年 九年

・北条氏……天正六年 天正八年  二年

・真田氏……天正八年 天正十年 二年

以上三氏の城代によって領有されている事実からだれもが望むのは当然といえる。中でも北条氏は最も多くの犠牲を払っているし、戦略的にものどから手の出る程ほしい土地である。父祖以来の念願である関八州の制圧を達成するためにも北方の重鎮であり、天下屈指の要害である沼田の地を上杉、真田の勢力下におくなど断じて黙視できない。それなるが故に往年この城を真田氏に奪われた時など死力をつくして三回も戦った。そうしていずれも利あらず敗走させられた恨みは永久に忘れることはできない。

上杉氏にしてもしかり、かつての実績を考えても沼田は当然わが手によって領有すべきであり、やがていつの日か父謙信の遺志を奉じて年来の宿題である関東への侵略を実現するためにも沼田の城は絶好の拠点で、真田、北条の手に何をもってまかすべきと痛感している。

真田氏はこれまた現在自分の領有する沼田城である。それをいかんながら織田信長という強大な武力者に心ならずも取りあげられた恨みは忘るべくもない。

この様に三者三様の立場から沼田城を望みながらも全く手が出ないのはひとえに信長の存在がそうさせているので決してあきらめているのではない。東日本の中央に位する沼田の城表日本と裏日本の接点にあたる沼田の城、まことにこの城こそ今後地方的に勢力を伸ばすためにはなんとしても確保したい要衝の地である。