写真と職人

全然関係のない藤岡の一老職人である私が、山の城下町沼田の素顔についておぼろげながらも解るようになったのは、ちょっとしたことがら知り合いになった「五七屋さん」や、毎号送っていただく「沼田万華鏡」のおかげです。

従来未知であった沼田へ、そんな関係から数回にわたって訪れるようになりましたが、「土蔵」に視点を合わせて町巡りをやったのは今春が始めてでした。

「土蔵」という建物は、一般的には屋敷の奥にあり、表通りからは仲仲見られないものです。これを敢えて観察しようということになれば、塀越しに伸びあがってのぞいたり、又は裏通りにまわってすき見する以外方法はありません。しかし見ず知らずの町ではこんな方法さえ困難なものです。それでも好きな道とてこれはと思う「土蔵」を何枚か写真に撮ってまいりました。多分うろんな奴と怪しまれたことでしょう。

今、秋の夜長のつれづれに沼田の「土蔵」写真を繰りひろげて当時のことを思い浮べておりますが、落付いて一枚一枚を鑑賞しているうちに、何やら「土蔵」から見た沼田の印象といったものが次第にまとまってきた感がしますので以下書綴ってみます。もちろん一左官職人が数枚の「土蔵」写真によって判断していることですから、この点は予めご承知置き下さい。


(イメージ)

話には聞いていましたが、実際巡って見て確かに「土蔵」の数の多いことは強く感じましたがその数の割に「店蔵」(蔵造りの店舗)の少しのには驚きました。

古い由緒を持つ城下町であり、しかも利根郡の中心的存在でありながらどうして「店蔵」が残っていないのだろう。たしかに現代は店舗建築が大きく変貌しましたが、それにしてもいわゆる「老舗」の面影を残す「店蔵」が殆んど見当らないのは一体どういうわけなのだろう、最近はいかにも落ちついたムードを強調するためと、純日本的な優美さをしめすために敢えて「店蔵」造りに建てることが静かな流行となっているのに、沼田の場合はそれとはあべこべに古くからの「店蔵」を現代流の西洋建築に改造してしまったことが少なくなった原因ではないかと考えるのですが、もしもそうだったら誠に惜しい限りです。

空っ風の強い上州において、しかも水の便がきわめて悪い沼田において一番気づかわれるのは火災対策だと思われます。だから「奥蔵」の多いのはその点からも当然ですが、更に「店蔵」もかっては相当数あったのではないでしょうか。

「店蔵」という土蔵店舗は、江戸明治にかけての最も堅固な放火建築で、その上当時最も世相に即した重厚性を強調した店舗建築でもあった。いうなれば世間一般から憧憬の的でもあった建物でした。

そんな関係で、財力ある商家はこぞって「店蔵」に建替えたそうです。一般的に「土蔵」が有るのと無いのではその家の風格に軽重がつけられることになり、店の場合は「のれん」の値打に影響を与えます。

「店蔵」となれば一般的の「奥蔵」よりもっと店の信用、資力に影響を与えますから、明治時代において沼田の商人がこの利点を見過すわけはないと思います。にもかかわらず沼田には昔から「店蔵」の数が少しという事実は一体何を物語っているのでしょう。商売より家財の方が大切だったからでしょう。

明治時代は「土蔵」は一種の流行建築でした。個人の家関係ばかりでなく、寺や神社、堂宇等まで「土蔵」建築が普及しました。沼田の町にはこれら宗教関係の中、大きなものは見当たりませんが、小さな堂、祠には「土蔵」造りの建築物がかなりの数見られます。他所に比較して多いといえるでしょう。それなのに「店蔵」となると当時でもあまり数多く見られない上、残るわずかのものも近代建築に改築してしまったのですから、町を巡っても見られないのは当然といえましょう。

明治時代は西洋風の文明が流入してきたけれど、一面「土蔵」建築も大いに流行しました。それが昭和の時世になると経済の高度成長に伴いこれら「土蔵」が大分壊されてきました。

やはり現代流の商法には「店蔵」は合致しないからでしょうか。とりこわして駐車場にしたり、四角な西洋建築に建替る傾向は沼田は特に甚しい感じがします。他所ではわざと古めかしい「店蔵」を名物にして老舗ののれんを誇っている例がありのに、一様に新建築に切り換える沼田の商人の考え方には何かしら底の浅さが感じられてなりません。

次に沼田町の古い写真を見ると、殆んどどの家の屋根も板葦きであったようです。現在では想像さえできない光景といえましょう。そしてどの家も低い二階造りで、一見平屋に見違える様です。板葦である関係から勾配はのろくしかも石を並べて置いてある。

この石置き板葺屋根は沼田ばかりではなく上州一円にわたって行われた工法で、上州名物のように言いふらされていました。ところが明治以後トタンが普及して、板葺屋根下地はそのままトタン屋根下地にとって替りましたから、現在沼田の町の店舗にトタン屋根が多いということは、とりもなおさずその昔は板葺屋根だったことを証明しているようなものです。

住居は板葺きで、奥にある「土蔵」だけは瓦葺きですから一寸奇異な感じがします。始めから瓦葺き屋根が少い沼田の商店街も考えれば妙な現象です。

瓦葺き屋根は、古く江戸時代、炎焼防止の意味から江戸の町においては奨励されてきました。これが地方へ伝わって財力豊かな商店は殆んど瓦葺屋根にしましたのに、沼田に限っては商店街にも瓦葺き屋根はあまり見られない。その理由は一体何でしょう。考えると興味ある問題と思います。

一つには寒気による瓦の損傷があげられると思います。普通の焼瓦では沼田が北限の位置にあることも考えねばなりません。特殊の瓦を使用ということになると建築費が著しく増大します。そんな点から板葺屋根の方が一般的には普及したのでしょう。

それにしても「土蔵」は江戸時代から流行し、明治にいたって最高潮に達しました。今日残る「土蔵」は殆んどが明治時代の作品でしょう。

従って明治時代の左官の技術は誠に立派なものといえますが、しかし当時活躍した左官職人の生活は、一部の人を除いては大変苦しかったようです。だから職人で二代、三代と続く家は恵まれている方で、大部分は一代で終るケースが多かった。これはある程度現代でも同じことがいえましょう。「沼田万華鏡」にかつて沼田在住の左官職の系譜が載っていましたが、二代、三代と続く家が比較的多いのは、沼田町の住み良さを無言のうちに語っているように感じます。

現在によって商業建築の新旧交替が行われるのは当然でしょうが、そうした中にあってかえって昔ながらの「店蔵」「石置板葺屋根」の造りの方が観光地沼田の商店にとって効果があるのではないかとも思われます。一枚の写真から職人はこんなことを想像します。これも秋の夜長と、寄る年波のせいでしょうか。

沼田万華鏡より