沼田市指定史跡 沼田城跡

指定 昭和五十一年三月三十日
所在地 沼田市西倉内町
管理者 沼田市

沼田城は、天文元年(一五三二)に三浦系沼田氏一二代万鬼斎顕泰が約三カ年の歳月を費やして築いた。当時蔵内(倉内)城と称し、沼田市街地発祥のかなめで、当市の歴史の起点でもある。

築城して四八年後の天正八年(一五八〇)武田勝頼の武将真田昌幸が入城し、城の規模を広げた。天正一八年(一五九〇)昌幸の長子信幸が沼田領二万七千石の領主となり、慶長年間に五層の天守閣を建造した。天和元年(一六八一)に真田氏五代城主伊賀守が徳川幕府に領地を没収され、翌二年一月に沼田城は幕府の命により破壊された。その後、本多氏が旧沼田領一七七ケ村のうち四六ケ村。飛地領合わせ四万石の藩主として入封し、幕府の交付金で城を再興し三の丸に屋形を建てた。次いで、黒田氏二代、土岐氏一二代の居館となったが、明治になって版籍奉還し屋形も取り壊された。時を経て本丸・二の丸跡が、現在の沼田公園に変貌した。

平成一二年三月 沼田市教育委員会


沼田公園寄贈者

久米民之助(1861-1931年)

旧沼田藩士の子息 久米民之助翁は、1861年に現在の東倉内町で生まれ15歳となった明治9年6月に上京し工部大学校(現東京大学)に入学、卒業後宮内省に入り二重橋の造営などにあたった。その後数々の事業を興して成功を収め、衆議院議員も努めた人物です。

現在の沼田公園は久米民之助翁が自分を育んだ故郷に恩返しをしたいと考え、私財を投じて荒れ果てた城址を購入し大正5年9月から、現在の公園の西半分を中心に2ケ年に亘り造営工事を行い、大正15年に沼田町に寄贈されました。

さらに、東側の工事が進められている中、昭和6年に亡くなられました。翁の石は現代に引き継がれ、市民や観光客など多くの人に憩いの場として親しまれています。

(平成元年11月 沼田氏名誉市民となる)



 

上野国沼田城絵図(部分)

こうずけのくにぬまたじょうえず

この絵図は、江戸幕府3代将軍家光が正保年間(1644〜1647)に、全国の大名に城の防衛体制を絵図に描かせて提出させた、いわゆる正保城絵図の一つで、真田氏4代城主信政(のぶまさ)の時代の沼田城と城下町の様子が分かる非常に貴重な資料です。原図は国立公文書管内閣文庫に所蔵され、大きさは1.76m X 2.34mもあります。

絵図には、城を中心として石垣の高さ、堀や土塁の規模、堀中の流水の有無や城下町の道程等兵法上の秘密となるべき事柄が克明に記されています。真田氏が改易になる天和元年(1681)まで存在していた天守や櫓及び城門等の形態を知ることができます。



 
 

沼田城天守

沼田城の天守は、真田氏初代城主となって信之(幸)/ のぶゆき が慶長年間(1596〜1614)に建造したと伝えられ、城絵図や古文書から規模は柱間で9間✕10間(推定18m四方)の5重であったとされています。天守は、この右奥に位置していたと考えられますが、幕府に提出したこの絵図によると、天守東の石垣は堀の底から8間もの高さがあり、屋根には千鳥破風(三角形の屋根)が多くみられ、最上段には高欄が巡っていた様子が分かります。関東に置ける5重の天守は江戸城以外は沼田城だけであったことや、天守付近から金箔瓦(金箔を張った瓦)も見つかっていることから、関東において沼田城は特別な城であったと考えられます。

この名城も、残念ながら5代伊賀守が天和元年(1681)に改易となった後に、幕府によって全て破却されて、以降、天守や櫓は債権されることはありませんでした。

沼田城の別称(倉内城・鞍打城・霞城)


天狗面の由来

このお堂にある天狗面は、昭和34年11月に迦葉山(かしょうざん)の大天狗面の分身として沼田市観光協会が作成した。顔の長さ3メートル、顔の幅2メートル、鼻の高さ1.4メートル、重さ1トンで木彫りの天狗面としては日本一の大きさを誇る(彫刻者:吉沢駿三郎氏)。同年、市内の祭りに初めて天狗踊りの行列が登場し、全国でも稀な行事として賑わいを見せた。

天狗面は迦葉山弥勒寺(みろくじ)の鎮守である中峰(ちゅうほう)尊者の化身だといわれる。

弥勒寺は嘉祥(かしょう)元年(848年)に創建され、康正(こうしょう)2年(1456年)に天巽慶順(てんそうんけいじゅん)禅師によって曹洞宗に改宗した。禅師に随行した弟子の中峰尊者は数十年間に渡り布教と伽藍の造営に尽くした。禅師が大盛(だいせい)禅師に住職の座を譲ると、「吾迦葉佛の化身にて已に権化化行(ごんけけぎょう)は終わった。よって今後は永くこの山に霊し末世の衆生抜苦与楽(ばっくよらく)せえん」と誓願して案山峰から昇天し、後に天狗の面が残されたといわれる。それを中峯(ちゅうほう)尊と称して祭り信仰を集めている。

現在、弥勒寺には地元商工会の有志が奉納した顔の長さ6.5メートル、鼻の高さ2.8メートルの日本一の大天狗面が安置されている。

The Origin of the mask of Tengu

In November, 1959, The Tourist Association of Numata manufactured the Tengu mask enshrined and stored in the temple annex in Numata Park. This mask is a copy of the big Tengu mask kept at Kashozan. The copy was carved by Shunzaburo Yoshizawa and measures 3 meters long by 2 meters wide. The nose is 1.4 meters long and the whole thing weighs 1 ton. It is the biggest wood crafted mask in Japan.

People came into Numata to perform the Tengu dance procession for the first time in 1959. This procession was quite an unusual event in Japan.
It is said that the Tengu mask of the Mirokuji Temple at Kashozan is an incarnation of Chuuhoson, the guardian deity of the temple.

The temple was first build in 848. In 1456, the Zen master, Tensonkeijun-zenshi brought the Soutou Buddhist sect to Kashozan and sought to improve the temple.
For several decades, he and Chuuho, his best student, were devoted to promoting and constructing the temple. When Tensonkeijun-zenshi resigned his post to make way for Taisei-zenshi, Chuuho disappeared saying, “I am an incarnation of Kasho who is one of the pupils of Buddha. My duty is finished. Hereafter, I will pass on to save people from suffering and bring them good fortune.” As Chuuho disappeared a Tengu mask took his place. The mask was named Chuuhoson and worshipped. It has attracted many believers.

The biggest Teng mask in Japan may be seen in the temple today. It is 6.5 meters long by 4 meters wide. The nose is 2.8 meters long. This mask was presented to temple in 1939 by volunteeres from the local society of commerce industry.


 

平八石の由来

沼田平八郎景義(かげよし)の首級を載せた石。平八郎は沼田城(蔵内城)を築いた沼田氏12代顕泰(あきやす)の側室の子で、摩利支天の再来とまでいわれた勇将。顕泰は城を嫡子朝憲(とものり)に譲り、平八郎を連れ川場村天神城へ隠居したが、側室とその兄金子美濃守らにそそのかされて、永禄12年(1569年)正月、朝憲を呼びよせて謀殺。そのため顕泰、平八郎は沼田勢に追われ会津へ逃げた。

平八郎は12年の後、沼田城奪還の兵を挙げて沼田に迫った。真田昌幸は戦っては平八郎に勝てないと知り城中に居た金子美濃守をだました。貪欲な美濃守は、己が栄進したいため平八郎に会い武装を解き、こっそり城内に入れて「お前が必ず城主になれるようにしてやる。」と偽り、城内へ誘い入れて殺害した。風雲児の最後また哀れだった。

時に天正9年(1581年)3月14日(一説は15日)42歳。平八郎の首級は昌幸が実検の後、この石の上に置いた。亡骸は町田町の小沢城址に葬り、沼田大明神として祀ったが首級は此処から亡骸を埋めたところまで飛んで行ったという。

(岸 大洞 文撰)

The Origin of the Heihachirou Stone

Heihachirou Numata’s chopped off head was placed on this stone. Heihachirou was the son of Akiyasu Numata, the twelfth load of the Numata family, and his concubine. People thought of him as a god-like courageous general. Akiyasu, the builder of Numata Castle, installed Tomonori as the thirteenth load of the castle. He then retired with his concubine and heihachirou to Tenjin Castle in Kawaba. The concubine and her oider brother, Minonokami Kaneko, instigated the murder of Tomonori. On New Year’s Day, 1569, Akiyasu summoned him and killed him. As a result of this, Akiyasu and Heihachirou were forced to flee to Aizu.


沼田公園

春の桜をはじめとして様々な草木の美しさが楽しめる公園
沼田城址に整備された沼田市を代表する公園で日本の歴史公園100選に選定されています。


沼田城御殿桜

(樹齢推定 400余年)
沼田城の天守閣が、5層の雄姿を誇っていたところに植えられ、今に残っている沼田城の形見の名木である。

沼田城は初め蔵内城と称した。沼田氏12代の沼田万鬼斎顕泰(ばんきさいいあきやす)が、3ケ年かかって天文元年(1532年)4月完成させ、柳町の幕岩城から引き移った。

顕泰は三男朝憲(とものり)に13代城主を譲り、川場村天神城に隠居したが、後妻の子4男平八郎景義(かげよし)を城主にせんと企て、永禄12年(1569年)正月、朝憲を謀殺、ために沼田氏は築城後37年間にて亡びた。

以来沼田城は上杉謙信、北条氏政、武田勝頼、織田信長、真田昌幸、北条氏直の支配時代を経て、天正18年(1590年)真田信幸が城主となった。信幸の夫人は徳川家康の曽孫=養女=小松姫である。

信幸は関ヶ原戦に徳川方につき、戦功により父昌幸の所領上田城主を兼ねたが、慶長9年(1604年)この御殿桜の処に3階建ての隅櫓(水の手曲輪門)を築造。ついで慶長12年(1607年)今の利根英霊殿の処に5層の天守閣を築造(間口10間奥行9間)本丸の外郭に土塀を築くなど、名城を完成させた。

それから77年後の天和元年(1681年)11月、5代城主信直が徳川幕府に沼田領3万石を没収され、城郭は跡形もなく取り壊された。

名城は姿を消したが、この御殿桜は400年の風雪に耐え、根は古塁の石垣をしっかり抱き、春ごとに寂廖の色をたたえた花を開き、興亡の歴史を語りつづけている。


沼田城跡西櫓台の石垣・石段

天文元年(1532)頃に沼田顕泰によって築かれた沼田(倉内)城は、上杉・武田(真田)・北条氏などの有力大名の狭間にあり、その属城として幾多の変遷をたどってきたが、天正18年(1590)の北条氏滅亡以降は正式に真田氏の所有する城となった。真田昌幸の嫡男信幸は、初代城主として城郭の大改修を手がけ、慶長年間(1591〜1614)には五重の天守をはじめ各種櫓や門などを建造して近世城郭として整備を行った。しかし、天和元年(1681)に真田氏が改易になると城は壊された。その後、本多・黒田・土岐氏と城主は代わり明治を迎えたが、城の本格的な復興はなされなかった。

発掘調査により発見されたこの石垣や石段は、西櫓台(前方の小高い部分)に伴うものであり、出土した瓦などから真田氏時代の遺構と考えられる。5代城主信利(信澄)の改易により、翌年城は跡形もなく破却されたと云われていたが、壊さずに地中に埋められていた部分が、300年以上を経て往時の姿を現したのである。

発掘部分石垣 石段(全長27.5m 石垣の高さ0.8〜2.0m 石段の幅 2.4m)

沼田市。沼田市教育委員会