五代伊賀守が襲封したときの沼田藩の表高は三万石といわれているが、実は四代信政の時代、この領主は「開発狂」とまでいわれたほど、新田開発、用水工事に力を注ぎ、このために寛永二十年、沼田領の検地を実施し、約四万二千石余りを打出したといわれる。したがってそれより十三年後信澄が五代領主の座についた時は、四万五千石の実収があったことになる。

これだけの実収高とはいえ、その裏には多年に亘る諸工事のため、藩の財政は極度に窮乏していた。信政はやりたいだけのことをやり、松代十万石の領主に転身したからよいようなもの、その後を継いだ信澄はとんでもない赤字財政をを引受けたことになったわけである。だからこそ祖父信幸の遺金分配については異常な程の執念を燃やしたが、これも失敗に終わってしまった。

加えて多年にわたる地衆、譜代の臣に知行地を与えていた支配体制はこの頃、すでに飽和状況に陥り藩財政を極度に圧迫していた。

地衆とは、中世末以来、利根吾妻に蟠踞している地侍、即ち小農奴資本家のことである。これらの農民群が戦争の際の雑兵として部将に大きく貢献する。

だからひとたび戦いが始まると、敵方は正面の相手を攻撃するよりも、敵地の田畑を荒し、農民兵の兵站部を荒廃させる方がより戦争効果をあげたとさえいわれる。

沼田藩は特にこれら地衆、譜代の臣に高禄知行地を与えていたため、藩の蔵入米は大きく減少する結果となった。

信澄はこの体制の改革をめざし、高禄の者を整理すべく計ったが多年の既得権と牢固たる地位に蟠踞するこれらの人達に対する抜本的改革は実施できなかった。

そこで信澄は城主就任五年目の寛文元年(一六六一)、増収をはかるべく家臣青柳六郎兵衛の献策で領内の再検地を実施することになった。
この時、さきに信政時代に検地したときの書類を残らず没収し、前記青柳を検地の総取締りに任命し、翌二年から実施にとりかかったのである。

これが現在伝えられる悪名高い伊賀守の拡大検地第一号で、三万石は一躍十三万五千五百八十六石余にはねあがる。

第一回検地は二年から四年までに終るが、その後も寛文十二年延宝三年、同五年、同六年と数回にわたって実施され、最後は四年に終っている。そして最終的には十四万四千二百二十六石四斗一升七合となる。

この数字は表高 三万石に対しては約四・八倍 内高 四万二千石に対しては約三・四倍にあたる。

検地はまことに微に入り、細にわたって行われたため、従来の面積を大幅に上廻り、それを基礎として増税をはかったのであるから、農民に及ぼす影響は大きかった。

後日談になるが、信澄失脚後、この検地の非が改められる。高須隼人による貞享検地がそれである。今一つの例として下沼田村をあげると、

・寛文検地(信澄)(一六六二)上田……三九八石八斗八升
・貞享検地(高須)(一六八五)上田……二〇石六升合と変化する。約二〇倍という高率である。

信澄のこの無謀とも思われる拡大検地を実施した意図に底流するものは、かつて松代十万石の領主にすわる機会を失った不満だったのかも知れない。

実際は、前に記したように戦国以来の高禄の家臣を多く抱えていたため、その財政的窮乏を打開する手段と見るのが妥当だろう。

当時三万石(内高四万二千石)の小藩でありながら

二千三百六十七石………一人
千六百石…………………二人
五百石以上………………七人
三百石以上……………十八人
百石以上……………九十二人

という高禄の家臣をかかえ、その知行高会計が一万三千四百四十五石というのでは、信澄ならずとも頭をかかえるのは当然であろう。

このように強行された検地による増税が、寛文四年(一六六四)から天和元年(一六八一)の改易まで一七年間も続いた。

さらに拍車をかけたのは延宝八年(一六八〇)の大飢饉であった。

この年は全国的にも暴風雨、洪水があり、特に東海、関東では被害が大きく、多数の餓死者を出している。沼田領でも百七十七ケ村のうち、百二十五ケ村で、飢人約一万三千人という数があげられている。

このような激動の中にあって、なお信澄は本誌第十二号に列挙した寺院の造営を強行しているのだから、一体どういう考えのもとに政治にあたっているのか判断に苦しむ。

利根の地は、面積こそ大きいが、領内は山嶽と溪谷が多く、平地は甚だ少い。従って耕地は畑が多く田が少い。さしたる特産物もなくその経済的基盤は極めて薄弱である。その上この地は当時、戦略上は枢要な地であったため、多年にわたって戦国武将の争奪戦が繰りひろげられ長い間戦乱に打ちひしがれていた。

従って初代真田伊豆守信幸は、襲封するや、荒廃した領内の復興、領民の生活保護のために全力を尽したのである。

年貢の減免
諸役銭の三年間免除
市日の設置
新田畑の開発
町割りの設定等、積極的に領主として経営を推進した。

時代が移るに及び、四代信政の強引なる開発、水利事業遂行、続いて五代信澄の拡大検地と、目的はともかくとしてその実施状況は、民生の極限を超えた強行策がとられた。

沼田万華鏡より