◯実説大岡裁き

大岡越前守の名が後世に高いのは、町奉行としてであり、大岡裁きということにおいてであった。

大岡忠相は長寿のため奉行としての経歴も長いし、業績も多く、裁判以外において江戸(東京)の歴史に不朽の地位を占めている。

大岡裁きとして世間に語られ、裁判官の模範として後世からも尊敬されているが、あまりにも名声が高いので、大岡以外の裁判までも大岡裁きとして扱われているのは、芝居や講談によって誤られたものである。

明治、大正、昭和の三代にわたって司法官であった尾佐竹猛氏は、かって大審院の判事、検事を歴任しているが、司法官であると共に著名なる歴史学者でもあった。その尾佐竹氏の説によると

明治に刊行された「大岡政談」と伝えられる中に、大岡越前守の裁判にかかるものは

・直助権兵衛

・白子屋お熊

の二事件だけが事実として認められるだけである。

と言う。

以下、江戸実話による直助権兵衛と、白子屋お熊について述べてみよう。


 
 

◯直助権兵衛

亭保年間、深川万年町に中島隆碩という医者が居た。年は四十五才、妻は三十五才という若さながらなかなかの名筆で、子供を集めて手習いの師匠をし、相むつまじく裕福に暮していた。

上州沼田生まれの直助という男を下男とし、外に十五才になる近所の娘を下女に雇入れていた。

直助は文盲だったので妻女は時折手本などを与えて、子供に教える合い間を見ては習字の手ほどきをしてやった。そのため直助はおぼつかないながら一応の読み書きができるようになった。

亭保五年(一七二〇)十二月三十日のことである。

たまたま病家から使いの者が来て、薬料として金三両を隆碩にと届けたが、あいにく隆碩は不在だったので直助は仮名まじりの領収書を書いて渡し、金を受け取った。

妻女はその時に手洗いに居たが、始終の様子はかいま見て承知していた。不審よ思われることは、直助は受取った金子をおのれが懐中にしまいこんだままで妻女には全然事の次第を伝えない点である。

やがて隆碩が帰宅したので妻はことの由を告げる。隆碩は早速直助を呼んで事情をただしたところ、直助は妻女に見られていたことを知らないので、知らぬ存ぜぬの一点張り、怒った隆碩は今後戒めとばかり激しく直助を折檻したため、今は直助包みきれずふところから例の三両を取り出した。

呆れたり、驚いたりした隆碩は、「今夜は大晦日、明日は元旦、外ならぬ時であるから一応我慢するが、十五日過ぎともなかったら宿役人に引き渡す。この旨よく肝に銘じておけ。」とひとまずその場は納った。

翌年五月十五日、直助は心の中に思うよう。

「どうせ十五日が過ぎれば宿役人に引き渡されるこの身、渡されて生き恥をさらすより、いっそ………。」と、その夜夫婦の寝込みを襲って、先に隆碩を刺し、次に妻女を切殺す。その上有金、衣類、刀剣等、金目の物をとりまとめ、一包背負って暗やみの中に逃げ去った。

翌朝大騒ぎとなり、まず下女に様子を聞こうとしたところ、奸智に長けた直助は事前にこの小娘をあざむいて実家に帰しているので犯人の様子はわからない。

ではもうひとりの下男直助は…と探してみたところ姿かたちがない。さては……とばかり犯行は直助と決まる。それから厳しい詮索が続けられたが皆目行方がわからない。

それもその筈、直助は江戸より三十六里離れた郷里沼田において何食わぬ顔をして身をひそめていたのであった。

しばらく郷里にかくれていた直助は再び江戸へ出て、その名も権兵衛と改め、何食わぬ顔をして麴町四丁目大和屋善兵衛方へ下男となって住み込んだ。

亭保六年三月二十一日、金に困った権兵衛こと直助は、かねてより持っていた刀一腰を、武州荒川の百姓五兵衛方に質入れをするのであるが、この刀こそ隆碩を殺した際奪ったかねてよりおたずねの品であった。

ここから足がつき遂に権兵衛は捕えられ、七月二十三日引廻しの二十五日まで日本橋畔でさらし、二十六日鈴ヶ森で磔刑となった。

極悪非道の直助権兵衛は、あまりにもその悪業振りが鮮烈だったのでやがて芝居にも仕組まれ、その名は悪党の代名詞にさえなった。

一方殺された中島隆碩はもと赤穂の浪士、浪々中は大石内蔵助から金子を借りて糊口をしのぎ、主君の仇討には神文までしたのに遂に討入りには顔を出さなかった。この刀も大石から贈られたものだという。

直助権兵衛の裁判も、月番の関係から前半は中山出雲守が扱っており大岡越前守は引継いて後半からタッチしている。

中島隆碩は元禄十五年(一七〇二)の忠臣蔵討入りより十九年後に下男の手にかかって非業の最後を遂げたことになる。考えると人の運命というものは不思議なものだ。

それにしても極悪人直助権兵衛の生地が上州沼田であったとは、これ又意外というべきか。
 
 

沼田万華鏡より