信澄は、沼田二代城主河内守信吉の妾腹に生れ、幼名喜内慶安四年(一六五一)十七才の時に従五位伊賀守に任官し、名を信澄と改める。この年、江戸においては家光が薨じ、家綱が四代将軍となった。


ウィキペディア「真田信利」より引用
実名は一般的に「信利」で知られるが、寛文10年まで「信澄」、延宝2年まで「信俊」、翌年から「信直」と改名しており、「信利」と名乗ったことは一度もない。「信利」の名は『寛政重修諸家譜』『徳川実記』にみられるが、「信俊」と音通する際の共通項がある以外、「信利」名乗りを使用した史料はいまだ見出されていない。


伯父大内記信政が沼田より松代へ移封させられた後、祖父信幸の配慮によって沼田城主となったのは、信澄二十三才の時であった。

時に明暦三年九月二十五日、明けて四年になると松代の伯父信政の訃報に接し、それより相続問題の中心人物となる。

小川城址
思えば信澄が母慶寿院と共に月夜野小川へ部屋住みを申し渡されてから十八年という長い月日が経っている。妾腹なる故、かって父信吉死亡の際も後継者となり得ず、今回も宿望の沼田城主にはなったものの念願の松代後継者にはなれなかった。

信澄をめぐる事態のことごとくが、彼の意のままにはならず、いつも苦汁ばかりのまされているその屈辱感が、若い信澄の精神構造にどのように影響したかは、明言はできぬながら、いつしか彼の性格を次第にゆがめて行ったのではないかということは想像できる。

遠く松代の空を望む時、果たし得なかった十万石の領主の座は、いつも信澄の心を異様にかき立てる。その光栄の座は報復の念と共に瞋恚のほむらの中に出現

したことであろう。

そうした心情の中にある限り、信澄の精神状態は決して平静では過ごし得ない。

「今に見ておれ。」と対立観念に燃える信澄は、城主としての識見涵養よりもすべてを感情的に処理する日々が続く。例えば家臣に対する領主としての処遇も、決して正鵠ではなかった。

伊賀守を補佐する忠実な家臣も決してない訳ではなかったが、その言に耳を傾けず、遂にはこれを退けてしまった事実さえある。

真田信利
 儒者であった佐藤五郎左エ門直方のごときもその一人である。直方は若い伊賀守の行跡に対して、たびたび諫言したが用いられず、やがては主家を立去るにいたるが、この人は「殿様が私の言を用いないならば、三年を経ずして家を亡ぼすにいたるだろう。」とまで直言したが、結局はこの言の通りになってしまうのである。

伊賀守の奥方は、土佐守山内忠豊の女であり、時の大老酒井忠清の子酒井忠挙の奥方の姉という関係であったが、この夫人が、沼田歿落後「直方を退けなかったら、わが家も亡びはしなかったろうに………。」と歎息した話がある。

一口に沼田城の侍といっても、その内容にいたっては色々ある。

・信澄直属の家臣

・先代以来の真田氏に仕える、家重代の家臣

・古くは沼田しに属していた土着の侍達と千差万別であって、これらは主君という、中心的存在が確固としておればこそ団結、忠誠をつくすが、肝心の殿様が感情的に人を遇するのでは、次第に勝手な考えを持ってくる。果ては、巧言令色ひたすら保身の道につとめるのもあれば、暗躍、策謀に明け暮れる者もできてくる。

後世、信澄が様々の苛政を施して人心を失い、遂には没落の悲運に見舞われるが、彼にしてもし人を視る眼があるならば、こんな悲惨な結末は見ずにして終ったろう。たとえ在職中いかに多くの行跡を残しても名家真田を絶家にまで導いた信澄はお世辞にも名君であったとはいえない。

個人の家にしても、家業体、自治体にしてもりっぱ業績をあげるか否かは、一にかかって最高責任者である「長」の姿勢によるのは昔も今も変わりはない。

信澄のその後における治政を見るのに、すべてがすべて悪いとは思わぬが、一貫した政治理念の欠如という点に関する限り、批判は免れない。

数々の事業においても、その志向するところが、果して領民の福利増進のためであったか、それとも松代十万石に対する背伸びと、自己の権勢欲の満足にあったのか、この点に思いをいたさぬと、表われた行跡のみによって軽々に判断するのは危険である。

信澄の生涯を見るのに、たしかに領主としての出世コースには不満があったかも知れぬが、一個の人間として見るときは、名もなき庶民にくらべれば明らかに栄光の座にあったことになる。こう考えると、大名の家に生まれた者必ずしも本当の人間的な幸せとはいえない。

以下次号には信澄の沼田城主としての行跡をたどって見よう。その軌跡をながめてからこの人の人となりを判断してもおそくはない。