徳川家康の第二子秀康は、豊臣秀吉の養子となり、家康からはあまり厚遇されなかった。

下野の結城家を継ぎ、秀吉の死後は越前北の庄城に封ぜられたが、三十四才で病死した。

その子が松平忠直で当時十三才、父の遺領六十八万石を継いだ。大藩で幼主の場合にはよくあるとこだが、家臣の勢力争いで、万石以上の高禄の者もある関係上、その面目を保つことから、家中が二派になって争うといういわゆる「久世騒動」が勃発したが、若年の忠直には制御する力はなかった。

周囲によって甘やかされ、何不足ない環境に育ったものは、暴君となることが往々にあるが、松平忠直は特に激しく、大阪冬夏両陣の後は将軍家に対しても反抗的で、遂に行状よろしからずと、元和九年(一六二三)三月、領地を没収され豊後の国に配流となった。

忠直の正室は二代秀忠の娘の勝姫で、父に罪があっても子の仙千代には何の罪もないと将軍に強硬に申し入れたので仙千代には高田の二十六万石を与えることになった。

仙千代長じて元服し三位中将光長となる。

一方忠直が豊後で死ぬと、その妾服に生れた松千代、熊千代の二人は越後に召され、松千代は永見市正長頼、熊千代は永見大蔵長良と名乗って光長の家人となった。

又忠直の一女子は家老小栗美作の子掃部を越後の国主にしようと計画したのが「越後騒動」の原因である。

徳川四代家綱は、温厚の将軍で暗愚ではなかったが病弱、政治は老中達の会議に任せる事が多く、大老酒井忠清の権勢のみが目につく。忠清の屋敷が下馬先にあったから世に「下馬将軍」といわれた所以である。

延宝八年(一六八〇)五月、家綱の病状が進み、子がなかったので世嗣を決めなければならない。酒井忠清は京都の有栖川宮幸仁親王を迎えて将軍にしようとし、老中も掘田正俊を除いては特に否定もなかった。

堀田は、将軍はその直系があるのに何故宮家から迎えるのかと譲らない。その主張が通って上州館林に封をうけていた綱吉に決り、五月六日直ちに江戸城に入り、将軍に謁したが、四代家綱は八日に逝去したと発表された。

綱吉擁立の功労者は堀田正俊であり、大老酒井忠清は当然その権勢の座から退かねばならない。綱吉が五代の将軍となり五箇月、酒井忠清は老中を免ぜられその屋敷は没収されて堀田正俊に与えて、翌天和元年(一六八一)になると老中土井利房も免職、正俊には五万石を加増、上州安中より下総の古河に転封する。これが将軍擁立に対する論功行賞である。

酒井忠清は天和二年に隠居し、五月十九日に没したが、自殺の風説もあり、将軍は検死の役人を派遣することになったので、酒井家では急いで火葬にし、その難を免れたと伝えられる。将軍綱吉は忠清の死後まで追求する執念深さであった。

将軍の初政は、家綱の時代に酒井忠清等によって行われた「越後騒動」の再審を命じたことである。

松平光長には嗣子がなかったので、永見長頼の子を養子とし綱国と名乗らせ、一方家老小栗美作の妻が光国の妹であり、その子の掃部も同じく甥に当たるのでこれを嗣子としようとしたことから起った騒動で、裁択はさきには小栗美作派が勝ち、お為方と称した永見大蔵派が破れて、毛利家等にあずけられた。

将軍綱吉はこの裁判を不当として、みずからの手で再審を行うという全く異例の裁判を行った。

天和元年(一六八一)六月二十一日、将軍は江戸城大広間に着坐、御三家以下諸大名が居並ぶ中で、堀田正俊を取次にして面前に呼んだ両者の言い分を聞き、最後に大声で「これにて決案す。早やまかり立て。」と決裁に及んだので、席にある大名達が恐れおののいたと伝えている。

翌日評定所で判決を言い渡し、美作と掃部父子は切腹、喧嘩両成敗で永見大蔵等多数の者が八丈ケ島等へ流罪になった。

松平光長は改易になり、伊予松山へ、大目付渡辺綱貞も前審の不当裁判の責任を問われ、八丈ケ島へ流罪、尚処罰はこれだけではなかった。松平家の分家姫路の松平直矩、出雲広瀬の松平近栄も各々処罰されている。

大老だった酒井家に対しては将軍綱吉としても取り潰すことはしなかったが、世嗣の忠挙には出仕をやめさせ、老中久世広の子重之も出仕を止めている。

沼田の真田信利(信直)も十一月改易になっているが時期的に見ても「越後騒動」の渦中にあり、酒井忠清とも親戚、信利と忠挙とはその夫人が姉妹でありどう見ても好ましからぬ酒井堂である。もともと北上州の要衝を占める沼田は特に整理すべきであった。改易にすべき条件は多くそろっているので、「越後騒動」の余波をうけたことも大いに拍車をかけたとも考えられる。

忠清の弟の酒井忠能は駿河の田中城主、本家の忠挙が出仕の遠慮を命ぜられているのに直ちに江戸に出向いて伺いを立てるべきところそれを怠ったというだけの理由で十二月に所領を没収された。もっとも信州小諸の三万石の領主の時は後世に伝わる悪政をしていたが、それでも一万石の加増をうけ田中城主となったのである。

これ等は皆「越後騒動」の一連の処罰と見られている。

将軍綱吉が何故松平光長と、酒井の一族を執念深く追求したか、それには次の様な理由があった。

忠直の女子松平光長の妹の亀姫が京都高松宮家に嫁し、子の幸仁新王(有栖川宮家を継ぐ)を将軍の世嗣にしようとしたのは、酒井忠清と松平光長の陰謀であったというのである。

この将軍直裁の裁判によって威厳を示し、大老達によって握られていた政治の壁を破るためでもあった。これが将軍初政一番の事件である。

綱吉はこれを手始めに、外様大名十七家、一門や譜代の大名を二十八家を改易にしているのには驚く。今まで外様は多く地ならしされていたので特に譜代を改易処分にしたのが綱吉のとった政策だが諸大名にとっては全くの恐怖政治であったろう。

酒井忠清は在職中、伊達騒動、「越後騒動」といずれも世継ぎのあらそいであったが、最後の将軍家の世嗣問題が命とりであった。

酒井達は真田家改易後、その事後処理である沼田領再検地という困難な仕事を幕府から命じられている。真田信利(信直)の改易と「越後騒動」とは全く別個のものであるかも知れないが、時を同じくしているのと、酒井家が両事件に直接間接に関係している点からは一応の連鎖反応と見られぬこともないと思うので敢えて記した次第である。

小野(月夜野町)