真田伊豆守信幸が初代沼田城主に封じられたのが天文十八年(一五九〇)そして五代伊賀守信直が改易となったのが天和元年(一六八一)その間二代 河内守信吉  三代 熊之助  四代 内記信政と計五代九十一年間続いた名家沼田真田氏はここにいたって遂に亡びた。

更にさかのぼれば、初代信幸の父昌幸が、武田氏の一部将として虎視耽々と沼田城をねらっていた時代がある。

それ以前、すでに古くから利根、沼田を支配していた沼田氏は上杉氏の軍門に降り、事実上沼田城は上杉氏の城代時代であった。(永禄二年より天正六年にいたる十九年間)

これを快しとしない小田原北条氏は大軍を率いて沼田城を攻略し、これを奪取した。一敗地にまみれた上杉勢はなおも利根川以西の川田、名胡桃、小川、新巻、須川、猿ケ京等の要害にたてこもり、川を隔てて沼田城に播居する北条勢と対抗していた。

こんな情勢下にあって、音もなく利根に忍びこんできた第三勢力真田勢は電光石火前記利根川以西の諸要害に立てこもる上杉勢を一挙に掃蕩し、更に沼田城の北条氏と壮烈な争奪戦を展開し、遂に天正八年(一五八〇年)六月十八日朝、昌幸は凱歌と共に沼田城に入城した。

この年より起算すれば沼田と真田氏との関係は六代百一年になるが、昌幸沼田城入城は武田氏の一部将という立場だったので、正式に城主として襲封したのは信幸からである。

昌幸が沼田城を入手してからは、これを奪回せんと再三北条氏の大軍が押し寄せ、両軍共利根の地を朱に染めた。秀吉は天下統一後、正式に沼田城を真田氏に与え、以後沼田における真田時代が始まるが、本来この地には真田一族郎党の血潮が浸みこんでいるゆかりの場所である。その点、後世沼田領主として襲封された本多、黒田、土岐の諸公とは根本的に異なる。

さていずれにしても名家真田氏は潰えた。初代信幸より五代信直までの治政に関しては色々の論議はあるだろうが、今から三、四百年前の真田氏の経営が現在の利根、沼田の骨格を形成している事実は否めない。それだけに五代信直の失政は惜しみてもあまりあるが、個人信直に対する批判評価より真田氏という一族と沼田との関係、影響に観点を向ける時、自ら新しい視野が開けるだろう。