伊賀守信澄は、幼きころは喜内と称し、後に兵吉と改め、更には成人して城主となったころは信澄となる。ついで信利、信純、晩年は信直と改めている。一般的には最後のものを本称とすべきであるが、沼田においては信澄が最も通用されている。

信澄は若いころは妾腹なるゆえに月夜野は小川に与えられた五千石の捨扶持に甘じて母と共に佗住居をしていた。

小川城跡
 それが四代城主信政が沼田より松代に移封させられるに及び、祖父信幸の配慮によって晴れて沼田城主として入城するのであるが、思えばこの二十三年の雌伏時代は信澄の性格形成にまで影響を及ぼす長い期間であった。その間における信澄の母の焦燥もまた並々ではなかった。「いつの日かわが子が沼田城主の晴の座に……。」と日夜念じていたろうし、大願成就を神仏に祈願するのであった。小川時代にもいくつかの神社仏閣を造営しているが、これとても真の崇敬でも、信抑でもなく唯自己栄達の念願のためであったと思われる。

一方領内の経営についても種々の事業を遂行したが、その計画には多分に無理が伴った。小川とは現在の月夜野の前身で、信澄はこの地点の発展を強調したのでその近郷に及ぼす影響も少なっかった。しかし中には見るべき経営もあり、信澄が単なる凡庸の人物でなかったことを物語る点もあるが、何やら総合的に判断すると、やがて栄光の沼田城主の座を覗うための前奏曲であるごとき感を抱かせる。

こうして若き日の信澄は、限られた狭い範囲ながら一つの事業を遂行し、実現させる醍醐味のとりこになったらしい。ひとたびこの事業欲にとりつかれるとこれはとめどがない、次から次へと新しい仕事を企画したくなるのはひとり信澄だけではない。人間誰しも持つ通弊であろう。

ましてや絶対の権力を持つ統治者であって見れば当然の成行といえよう。そんな関係で、やがて信澄が沼田城主となった際、「これからは先行きが思いやられるぞ。」とささやく声があったというのもなにやらその間の消息を物語っている。

さてその信澄が多年憧れの沼田城主となったのは二十三才の時、明暦三年(一六五七)であった。これは今より三百二十二年前にあたる。

その翌年に松代城主信政が中風で卒去した。当然後継者の問題が起り、それより松代と沼田が深刻な対立関係となった経緯は前号に述べた。

真田信利
信澄が継承した沼田領は三万石である。それに対して松代は十万石という比較にならぬ数字であるから大いに食指が動いたことだろう。

続いて起きたのが松代に隠居していた信幸の遺金分配問題である。結論的には両方共、信澄の意のままにならなかったのであるから察するにどんなにか激しい屈辱感に打ちひしがれたことだろう。

永年、母の盲愛と過保護に育てられた若き血に燃ゆる信澄の心情は異様なまでの錯乱状態に陥ったと見るべきか。そしてこの不確実な思考力が領主という権力の座を背景に今後の経営の根幹となって行く。

一方、沼田の家臣関係の封禄を見るに、かって戦国時代より与えていた石高は次第に膨張し、全国統治の基礎がようやく固まった当時にあってはすでに飽和状態に達し、三万石の表高ではとうてい賄い切れぬ程の数字をしめすにいたった。といって戦争によって新地を入手する時代はすでに終った。従ってこれら家臣の封禄をまかなう方法は、行政機構改革による人員淘汰と、新田開発以外はない。信澄はいうまでもなく前者の方法を採用したが、複雑な家臣の内情関係からそうそう思い切った処置もとれず、期待される程の効果はあげられない。とすると残された方法は新田開発を進め増収をはかることだけである。

由来利根、吾妻の地は広大な面積を有し、実質的には十万石の内容を持つといわれている。惜しむらくは地勢峻険で複雑、とても平坦部とは比較できない実状である。にもかかわらず、信澄は領主となって六年目の寛文二年(一六六二)拡大検地を行い、三万石を実に十四万四千石に膨張させた。

たしかに面積としては広大であっても荒地、やせ地の多い山間地方にあっては従来多分のお目こぼしがあった。信澄襲封の頃は先代信政の用水工事の完成もあって実収は三万石をはるかに上まわるものがあったろうが、それにしても一挙五倍の拡大検地は激しい。

その結果は当然百姓の生活に影響してくる。一口にいってこんな水増し検地を標準とする年貢には応じられない。

信澄は(といっても実は青柳六郎兵衛なる家臣の進言によるものであるが)増収又増収、それには水利事業を起し、水田を増し米の増殖を計る____それはとりもなおさず領民の福祉につながるとばかり、工事の遂行に拍車をかける。たしかにそれは一理ある企画である。遠い将来においてはその実益が考えられるとしても、当面課せられる百姓の労役は、容易なものではない。いうなれば種を蒔くと同時に穂をつむようなことをすれば、領民としては苦しむばかりである。しかも年貢の取り立ては中々手厳しいものがあって滞納の場合は明年の種籾まで強奪したり、田畑家屋敷家財道具を競売に付したり、それでもなお不足するときは人質を取って親類縁者の前で苛責を加えたり、甚だしい場合水牢に入れて責め苦を与えたりした話が残っている。

年貢の外、あらゆるものに税をかけたという。例をあげれば、鉄砲、糸車、網、鍬、きせる、井戸、窓、婚礼、出産等にいたるまで税の対象としたとか。

この様な措置が果して信澄自身からの発案か、それとも民、百姓を忘れた奸臣の献策によるものかは、判明しないが、いずれにもせよ最高責任者である領主の姿勢は批判されねばならない。

あえて忖度するに信澄の意識に、松代十万石に対する対抗が沈潜していたと見るべきか。

このような暴政に対して一体諫言するような家臣は居なかったのかの疑問が出る。

当時の家中には城主を補佐し、道を誤まらしめないよう忠言を呈する硬骨の士が居ないわけではなかった。佐藤五郎左エ門直方や脇坂源吾エ門のように身をもって進言する忠臣もいたが、信澄はこれらの人の言に耳をかさないどころか放遂している。

こんな状態であるから奸臣共のはびこる余地は充分といえる。亭主の好む赤烏帽子のたとえの通り識見の浅い主君の下には、やはり現実主義の政策しか育たない。
 
 
沼田万華鏡より