真田初代城主信幸は、真田氏においても特に思慮深く、武勇に富富み、かつ道義に篤い、典型的な武人であった。

由来徳川氏と真田氏とは、誠に折合いが悪く、ことごとに反目し合う間柄であったが、家康も信幸ばかりは殊更に目をかけ信頼があつかった。その証拠の一つとして信幸に、おのれの曾孫小松姫を配した事実があげられる。

信幸も徳川の知過にこたえ、関ヶ原の合戦には、父、弟と袂をわかち、家康の軍に参陣した。

家康、信幸の個人的情誼はこの様に篤かったとしても、ひとたび徳川家が幕府を創設し、慶長十年、秀忠が二代将軍となってからは、幕府という巨大な組織と、外様大名という苛酷な立場にはさまれた信幸は、思慮深いだけに次第に新しい運命の迫るのを予測そていただろう。

とまれ信幸がいかにりっぱな武人であったかはいくつかのエピソードでも知られよう。

信幸は若いころ、父昌幸と共に出陣する毎に、「親のそばで戦っていては、いかほど戦功があろうとも、それは親のおかげだといわれる」とばかり、必ず父より一里(四キロ)ほど先に進んで戦うのを常としたという。

・又、ある日、徳川の勇将酒井忠勝に招かれ「真田家には信玄公以来の兵法はあると思うが、それを話してくれぬか」と尋ねられたに対し「兵法は、ただ家臣をふびんに思うことであり、礼儀を乱さない、それが要領である」と述べたという。

・徳川頼宣(家康の子、紀伊家)の邸におもむいた節、頼宣より「さなだけには信玄このかたの行跡が残っているはずだが………」と尋ねられた時「別段何もありませんが、ただ、明日にも何事か起った時は、馬前で討死しようと思う武士が二百騎ほどおります」と答えたという。

・信幸はすこぶる謙譲な人であった。家康が天下を統一し、諸大名に謁見を許した時、みな我勝ちに、家康のお言葉にあずからんとしているのに、信幸はうしろにあって唯黙然として控えている。

これを見た家康は「信幸、いずれ改めて話に罷り出でよ」と殊更言葉をかけたので、居並ぶ諸大名は誠に意外の思いをした。

・物質的に思いやりの深かかったことも信幸の人柄出会った。

例えば、家老の家などに出かけようとする時は、先ずもってその費用を見積らせ、その金額を知るや「行こうと思ったが急に行けなくなった」と、その費用の金だけを送らせて、下々のふところを豊かにさせたという話もある。

又、関ヶ原の戦や、大阪の冬の陣、夏の陣両役においても、部下の将兵は実によく戦ったのであるが、これについて信幸は「士卒もただ命令だけでは励まぬもので、金銀を快くつかわしての命令でなくてはならぬ。その意味からも武士は常日頃金銀を大切にすべきものである」といましめたという。

・関ヶ原の戦においては本誌第四号にも述べた通り、諸般の事情によって

父 昌幸  弟 幸村
 石田三成方

兄 信幸
 徳川家康方

と分かれねばならぬ羽目となった。

やがて德川方の勝利に終り、三成軍に参加した昌幸、幸村も誅せられることになるや、信幸は、妻の父酒井忠勝を頼み、家康の最も信任厚い榊原康政を通じて将軍秀忠に「関ヶ原における私の戦功に対し、もしも恩賞を賜わるなら、その恩賞にかえて、父弟の首をつながれたし。」と願い、ひたすら助命を乞うたが許されないので「この上は父弟の助命はお願いいたしません。私は生あるうちは德川家に味方しましたものの、死後は父弟と共にありたいと考えますゆえ、父弟の首をはねるに先立って、私に死を賜わるよう………」と真情込めて歎願したので、ついに昌幸、幸村の命は助かり、九度山に蟄居を命じられた。その情誼のあつきこと、誠に見るべきものがある。

・以上の例によって信幸の人となりの一端を窺いしれるが、このような名君を城主として仰いだことは利根、沼田にとってこの上もない幸いであった。