今回徹底的に破壊された沼田城は、周知のように沼田初代藩主真田信幸が構築したものである。

破壊をさかのぼること約八十年前、慶長七年(一六〇二)信幸は沼田城の近代的装備に着手する。越えて十一年に天守閣造営を計画、翌二年二月五日に完成させている。

その仕様は、間口十間、奥行九間、五層という大規模で、当時関東八名城の一つにあげられた。

普請奉行 木村土佐守外二名

材木奉行 原口左衛門(利根郡誌では原郷左衛門)

石寄奉行 山田壱岐守(郡誌では羽田雅楽)

石垣奉行 矢沢但馬守

人夫は足軽六百人、信州の百姓達なで動員している。

完成した後、人々は白壁に映える姿の美しさを讃え別名を「霞城」ともいった。

城郭の構築には、莫大な人夫と資金を要するが、一山間の小都市であった沼田にかかる壮大な城を構築した真田氏の資力は一体どこから生まれたものか。又その真意の程はどこにあったか。天守閣についての記述は、いまだ前記以上の詳細な説明に接したことはない。

現在、公園の御殿桜近くに沼田城説明図が掲示してあるが、あれはあくまで想像図で確たる証拠に基づくものではない。

ないないづくしで申訳ないが、沼田城天守閣についての細かい諸元は記録としては皆無に等しいといっても過言ではあるまい。

信幸が心魂を傾けて造築した沼田城は、僅か八十数年の生命で永久に姿を消してしまい、その後再たび天守閣は造営されることもなく明治維新にまで到っている。

それというのも元和以後は城の新築修理は厳しく制限されたからである。

しかし破却された沼田城に対するご郷愁の念は強烈なものがあった。同時に城下町として沼田の姿を永くとどめておこうとする人々の願いもまた切実なものであった。その証拠として今日残る沼田の古地図は、城破却の年、即ち天和二年に作図されたものが圧倒的に多い。中には模写した地図もあろうが、それにしてもこの様に多く残っているのは、盛時を偲ぶ心情の表われといえぬことはあるまい。本誌第十三号に添付した「真田時代沼田城下町図」を参照の上、当時の町の概観にふれてもらいたい。

近時、滅び去った名城に寄せる思慕の情から、又は町の観光資源の設定から、「沼田城復元問題」が提唱されているが、その志向する点了解できるけれども、さてこの仕事の実現という段階になると幾多の難問が考えられる。

一、復元の基礎資料の問題

復元とは元の姿にかえすことであるが、肝心の昔の姿を物語る資料は殆ど発見されいていない。唯九間に十間、五層建という程度の資料で一体どの様にして復元ができようかという疑念がる。

一歩ゆずって五層の形をしている天守閣でその内容はどうあろうとおも一応形が整っていればよいという考えに立つなら、復元の意味は消える。とすればあながち五層でなくとも三層でもよいという論理が成り立つ。

事実この考えに基づいた三層の天守閣設計図が作成されたこともあった。

こうなると最早真田時代の天守閣復元という旗印は消え失せ、どこの城の模倣でもよい、形の整ったものを作るということなり、建築意義は歴史的立場から観光資源を作ることに移行してくる。

二、建築に関する技術的の問題

よしんば観光用の城としても、ひとたび城と名がつく建造物、特に天守閣ということになるとこれは莫大な経費を必要とする。たとえ構造的には現代化された鉄骨造りにしても容易な金額ではない。

仮りに建造するとなれば公園が最有力の候補地になろう。昔の天守閣は現在の英霊殿付近にあったと聞くが、ここの整地の問題、それから石垣の問題も考えねばなるまい。まさか天守閣土台の石垣にコンクリート製の見知石を使うわけにも行くまい。とすると自然石を使用するわけだがその巨大なる石材の収集、及び石垣積みの技術も合せて問題になろう。

しかしそれらは経費の面で一応は解決するかも知れない。戦後各地において天守閣復興のブームが起り、初期においては富山、岸和田、岐阜と、続いて広島、浜松、和歌山、大垣、小倉、名古屋、小田原、熊本、松前福山、平戸、岩国、伏見桃山、島原、中津、会津若松その他相ついで復興工事が行われた。

右の中、太平洋戦争中戦火によって焼失したものがある。これらはいずれも復興に際して確実な資料に基づいて外観だけは忠実に復興している。

中には大阪や島原のように資料をもとにして想像で復元したものもあれば、過去において天守閣は存在しなかったものを、観光や文化施設の目的で城地内に天守閣様式の建造物を建設したものもある。二、三の場合を除いて殆どが鉄筋コンクリートによる近代建築で、内部にはその城や歴史についての参考資料を展示し博物館資料館としての文化目的を果たしている。

又、建築にあたっては概ね、土台石垣の遺構を生かしているが、唯萩城址だけはあえて模造天守閣を作らず野草の生い茂れるままとして訪れる人の自由なるイメージにまかせている。

三、維持、管理の問題

単に建築するだけならばあるいは資金調達方法が考えられるかも知れないが、建築物はすべてその後維持管理の問題を考えておかぬと大きな違算を生じる。

仮に天守閣が建築されたとしても唯一つぽつんとそれだけを建てるわけにも行かぬ。当然その後の経営に必要な施設設備が望まれる。普通博物館としての利用が考えられるけれど、内部に陳列する資料の専門的取扱い、又管理員等の人件費、光熱費、修繕費等に思いをいたすと、なかなか観覧料の収入だけで賄い切れるものではないことは前記復元した都市の実例によって明らかな事実だ。

四、結び

以上の理由によって沼田城復元問題は仲々複雑な条件を内包しているといえよう。決して天守閣復元事業を反対するわけではないが多額の経費を必要とする事業であればある程その意義づけと研究が望まれると考える次第である。「沼田にはしかるべき観光資源がない。天守閣でも復元したら多くの観光客を招致でき、沼田市をうるおすことになるだろう。」という程度の考え方ではいささか危険ではなかろうか。

沼田市としては現在多くの問題に直面している。下水道設備、バイパス道路の開通、玉原高原の開発、商工業の振興、市街地道路の整備、公共建物の建設等あげれば切りがない。こうした実状を踏まえているだけに「天守閣復元問題」は慎重な取扱いを要することを提唱するものである。願わくば市民生活に直結する諸問題が解決し、次は天守閣建築を実施しようと踏切れる時代が一日も早く到来することを望む者である。
 
 
沼田万華鏡より