前回の記事「土岐 頼稔(とき よりとし)の移封」で紹介した「上州沼田考量」の続きです。
 
 
◯百姓

一、貧福、男女共に人品、物言いが良く勤勉であること町と同じ。

一、人品町と同じと言うが、その性情は強い。他国と変らないと言いながらも賤しさが少い。中でも人の頭に立つ様な者は、大平記又は甲陽軍鑑のことなど、片言交りながら語る。又、人情たのもしい所が有るやに見る。

一、市で馬を扱うにも脇差しを話さない。この事は町人も同じと言うが百姓に比べると少い。

これは上州の風と言えようが、沼田近郷で特に目立つ風俗である。さりとて片ひじを張るという意味ではない。

一、土の質はよくないと思うが作物には適すると見えてよく成熟する。

一、町、在共に物を売る場合、値段をあまりはっきりと言わない。

一、町、在共に武芸はしない。従って武器、武具の類は持っていない。しかしながら乗鞍は村々に於て所持している。これは地頭、郷役人の送迎又は医師を呼ぶ時、駕篭を用いず小荷駄馬を使うための用意である。

一、町、在共に名物なし。ただ多いものは、薪、炭、鞘木、串柿、わらびである。

◯神社

一、町、在共に立派な神社がる。神主の人柄や社宝等についてはまだ調査していない。神社の大小、その数は奉行が調べているので略す。

◯仏閣

一、僧侶の人品は他国と変らない。音も無く香も無しといった状態。いずれも経済的にはなんとかやっている。それというのも大半は農業を兼業している故と見る。寺院、僧侶の数は奉行で調査のこととて略す。

◯医師

一、先日調査があったので略す。

◯山伏

一、そん数多く諸方に立回っているが、居所はわからない。羽州が近いためと思われる。家業を持っているが毎年和州大峯山に修行。彼の地のお礼を家毎にまつり貼付する。

但し悪い評判は聞いていない。その数は奉行において調査ずみ。

◯陰陽師(占いまじない師)

一、有る事を聞かない。

◯神子

一、町、在共に居住しているらしい。しかしその挙動が誠に粗雑で、案内も乞わず家の中に入り、やたらに鈴を振ったり声を出したり、甚だ不礼であるという。先代黒田氏のころこれを制さなかったためか。その数奉行より報告ある筈。

◯座頭

一、その数は多い。大方越後より来往するらしい。話によると彼の地は雪が早く降り長く解けないため目をわずらう人が多いそうだ。従って盲人になることも多い。今家中に出入する座頭もこの例にもれない。奉行においてその人数調査中につき略す。

◯馬士(馬子)

一、総じて江戸より本庄までの馬子は東海道より律義である。尤も残らずというわけではない。

馬子同志の行き違いにもとりわけ悪口をいわず、その挨拶は普通の人と同じである。かかる人柄の良いのは沼田辺は百姓の副業であるためであろう。服装等も馬子風ではない。

◯往来(交通道路)

一、奥州街道

沼田の東、高平村(山に付沼田上水の上、この源流を古関という)より往来する。この外に裏道と称する道路がある。これは高平村から川場村を経て東入りというとこへ通じる。共に先へ行っては一緒になる。(川場村にも上水の上有八里先に戸倉という関所あり。ここは女の出入を改めやすい。このあたりの道大難所で、あっちの山こっちの谷に一、二軒民家が有る程度である。

この戸倉より先は里数などわからない。行きつく先は奥州だが細かいことはわからない。

高平、沼田間は約二里であるが、さして旅人の往来はない。唯街道というばかりである。

一、越州街道

御家中のはずれ滝坂口御門の外半町ばかり行くと急な坂となるが、ここが海道の出口である。

この坂は約三、四町続くがこれは

沼田の地が一段高いためである。

坂下より北へ向って行くと、左八、九町西が利根川である。

坂下より二里ばかりいくつか村を過ぎると「かち渡り」の場所があるというが、普通舟で越える。この舟に渡縄を張りそれを便りに舟を操る。これは城州の奥喜撰嶽の下り舟と同じである。

この外に「かち渡り」できるところが数カ所ある。内滝坂向に当るところも渡れる。ここを幡の瀬という。

舟で渡った向岸を月夜野町という。この町も毎月三、七日に市が立つ。是より先の馬場村という所で本庄よりの越後道と出会う。月夜野町より六里ばかりで永井に達する。

この辺に上信越の国境がある。そこを三国峠という。

永井より手前に猿ヶ京という関所が有り、ここに女改の番人として坊新田より一人、岡谷村より一人交代で勤めている。

永井の先は浅貝という、ここは越後である。あまり通行人を見ない点は奥州街道と同じである。

◯越の間道

湯のひそ村と申すところか、迦葉山か、どちらかはっきりしない。

この間道は殊の外近道だという。

関守一人阿部儀兵衛と申す者が、湯のひそ村に住むところから、湯のひそ村の方が本当らしい。

湯のひそ村は藤原に続いた山の中である。

・湯のひそ村とは現在の湯桧曽のこと、従って越後へ通じる間道とは後の清水越道であろう。

◯武州街道

一、五料道は大手先より真直に南へ行き、大手より十町先の砥石坂を過ぎ片品川に達す。それより半里ばかり行くと森下(馬頭である)更に進み前橋五料を過ぎ本庄に出る。これより西へ行けば東海道、東へ行けば江戸街道へ通じる。

本丁通大手先より右へ行き、下之町より鍛冶町を通り、真直南へ行くと戸鹿野橋に達す。右へ行けば吾妻道、左へ行けば杢橋へ出、御関所を過ぎて高橋へ出る。

◯古城

一、城楽院

沼田城下町の北はずれ、ここより今の御城地へ移り蔵内の城となる。古城と言う、又幕岩の城という。

一、法城院

沼田より北二十町、町田村にある。

沼田平八殿塚印の杉あり、石塔に法名が彫られている。

一、小川本城

月夜野町入口、真田伊賀守部屋住の城と土地の者はいう。

御居間跡に手水鉢がある。小川と近郷の総称である。

一、かね山の三城

小川の本城の上、小川可用斎居城沼田万亀斎と関係のある所とか。

一、名胡桃城にある一ヶ所古城

月夜野町より半道あまり、何人の居城か不詳、信玄公の時分捕ったと甲陽軍鑑に見えている。

一、東入古城

これは奥州街道川場村の南東、沼田万亀斎が一度居城したという。

一、躬恒山の古城

沼田より二十町ばかり、何人が居住したか不詳

一、上久屋村内の由、一ヶ所古城

御城より一里ばかり東で片品川の上という。何人の居城かわからない。大体この地に居城が有った事がたしかでない。

◯古戦場

大体において無いといえよう。

月夜野町上に一つの塚がある。沼田万亀斎と小川可用斎の戦場で、討死の者を埋めた印という。こお塚の上に木が繋がっている。菩提木という。

信玄公謙信公が相争った節、謙信公が往来した。藤原村に謙信公の腰かけ石という石があるとか、その由来を知り、謙信公の証状を持っている者が彼の地に居住するという。

茅輪、前橋も近所であるから定めて古戦場も所々に有ると思われるがその様子を知る者が居ない。従って古戦場は無いということと同じである。

◯名所並びに古跡

一、躬恒山

大河内躬恒配流の山という。山上に一社有り河内大明神という。九月三、九日を年毎祭礼の日として人々が集る。

一、腰かけ石

古戦場のところへ記した、古跡といえる稼働か。藤原にあるという。

一、迦葉山

日本三の山と言う。日光山、高野山、迦葉山がそれである。

この山の上に一寺があり竜華院という。この山に慈悲心と鳴く鳥が居る。これを聞こうと出かけ宿に泊る。

一、平八石

御本丸脇曲輪にある。別に平八石殿廓ともいい、更に栗の木が多いため栗の木廓ともいう。

この石に平八殿の首をのせ実検したと言う。今もたたりありという。

一、八ツが脛

月夜野前の利根川上の東の方後閑村山上に一社がある。昔の人の骨が多くあるその中に足の脛が八つにぎりもある骨を本社に祀った。何人か不詳

右の外はわからないので追々調査する予定

以上が寛保二年(一七四二)十二月二日、土岐家御小姓役片岡茂左エ門が上役に提出した新領地利根の地誌概要「上州沼田考量」のあらましである。

この報告書がどの位当時の利根沼田の情況を記述し得ているか、それは現代に住む私達には知る由も無いが、それでも一応の観察のもとにとりまとめたものであることはうかがい知ることは出来る。

暖国静岡県の藤枝市(前任地田中城の四辺山に囲まれた利根に来たのであるから、見るもの聞くものすべて奇異な印象を受けたであろうことは想像できる。

土岐家上層部では定めてこの「報告書」を今後の行政に大いに役立ったことだろう。

現代的感覚からこの記述を見てもうなづける点が多々ある。今日に残る様々の生活習慣の根源的なものが既にこの頃から認められ、思わず伝統、因習の根強さを痛感させられる。

この報告書によって

・利根、沼田は検地(土地測量)によって記録された土地面積より実際は相当ののびがあることがわかった。

・住民の人柄は概して純朴にして勤勉である。

・取り立てていうべき特産物がない。

・前の領主黒田氏の政治に対してはあまり良くない感じを持っている。

・食料の確保には大きい関心を持つ。

等のことが感じられた。