ここに一部の古文書がある。題して「御遺百箇条」といい、冒頭に

御遺状比ノ百箇条ノ趣ハ、東照宮駿州久能ニ於テ御自筆ノ御条目、御宝蔵ニ納メ御老中ノ外拝見コレ無ク、官役邸ニ於テ記憶シ玆ニ書ク、深ク秘メテ他見アルベカラザルモノナリ。

と記し、以下百箇条にわたって行政上の留意点を細々と書き綴ってある。その条々たるや誠に理路整然、いたらざるはなしといった記述で、いわば幕府行政官の虎の巻ともいえる内容を持っている。

この文書出典の真偽の程はわからぬが、見る限りにおいては徳川家康が駿府隠居の後、宗家百年の計を慮り已が所信の程を克明に書きしるしたものと考える。

「御定書百箇条」が司法官の原拠であるならば、この「御違百箇状」は行政官の指針といえる。共に依らしめるだけで公開はしない。なおこの外に「武家諸法度」があり、これは諸大名統制の基本的な制度であった。

「御遺百箇条」の中にも大名統制に関する幾条かのとり決めが見える。

一、武家諸法度ノ条々ハ古例ニ准ストイエドモ時ノ宣ニ随ヒ損益スベキコト

一、摂州大阪落城以前ヨリ我ニ随従ノ士ヲ譜代トス、落城以後帰伏スル士を外様トス、外様ハ拾六家、譜代八千二十三騎、外ニ同門ノ士十八家、賓礼ノ士五家、比ノ差別ヲワキマヘテ一様ニスベカラザル事

一、スベテ譜代ノ士多シトイエドモ我故家三河以来ノ者ヲ之ニ記ス、井伊、板倉、鳥居、大久保、戸田、土屋、本多、小笠原、秋元、榊原、酒井、石川、久世、阿部、加藤、内藤等ナリ

コノ者共ノ子孫器量備ル者ヲ撰ンデ将軍家ノ政務ヲ司トラシメテ老臣ト称スベシ、外様ノ内タトヒ働キ衆ニ越ユルトモ比ノ任ニ当テマジキ事

一、大小譜代ノ士ハ皆我ガ為二粉骨砕身ノ忠士ナリ、ソノ子孫不行跡二及ブトイエドモ返逆ノ外ハ其ノ家没収スベカラザル事

一、国主領城主外様譜代二限ラズ令法ヲ破リ民ヲソコナウ者有ラバ大禄又ハ貴威トイエドモ速二国城ヲ払ヒ武威ヲ厳ニスベシ、是則チ将軍家ノ職分ナリ。

一、実子無キ者ハ預メ養子シテ家督ヲ固ムベシ但シ当人十五歳以下ノ者ハ養子例ナシ

管家ニハ東宮ト称シ、将軍ニハ儲公ト呼ブ、諸候ニハ世子ト名付ケ、士大夫以下ニハ養子トイフ、実子無ク養子無クシテ相果テル者ハ親疏ニ拘ラズ没収ス

等があげられる。これらの箇条から諸大名に対する幕府の考え方がそこはかとなく感じられるものがある。

徳川家康が権力を実質的に把握したのは慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦に大勝してからであった。そして戦後処理に取りかかり旧豊臣体制の諸大名配置を根本から改革した。

石田三成、上杉景勝、毛利輝元等の大大名を始めとして八十八の大名を廃絶し徳川体制三百年の基礎を築いた。

この処置は幕府統治の体制確立というより、戦後処理の傾向の方が強いとも思えるが、それでも徳川体制の基礎が一応固められた。

以来、秀忠、家光、家綱、綱吉と徐々に、しかも確実に諸大名の廃絶を行い次第に体制の充実につとめる。いわゆる支配権の拡充にこれ奔走したわけである。

徳川幕府成立から十五代慶喜の大政奉還にいたる二百六十四年間における大名廃絶の数は実に二百四十一家の多きにのぼる。沼田真田家の廃絶もその一例にしか過ぎない。

廃絶の理由の第一は世嗣がいないこと、第二には幕命違反、即ち武家諸法度違反、第三には失政があげられる。真田氏の場合は第三の場合に該当する。

以上述べたのは諸大名に対する一般的な処置であるが、沼田真田氏に対しては更に複雑な理由が加算されてくる。以下(次回)その点を探ってみるとしよう。

沼田万華鏡より