高須隼人正沼田再検地の続きとなります。
 
 
毎年、春秋の彼岸の中日には月夜野町茂左エ門地蔵尊の縁日が執行される。この日は各地より参拝者がひきも切らず押すな押すなの盛況を呈するが、それにひきかえ松井市兵衛と通じて数える程しか見られぬ。

この三人はそれぞれ身を挺して伊賀守の苛酷不当の検地是正と闘い、果てはそれぞれ非業の最後を遂げたのに、後世の人達は何としてこの様な差別待遇をするのだろうか。(本誌第十四号参照のこと)

又当時救世主の如く敬仰された高須隼人正の墓所に対しても同様のことがいえる。

昭和五十六年十月一日、この日霧雨が音もなく降りしきっていた。日頃念頭にあった高須隼人正墓参を果すべく、

宮前太郎 (中町)
清野喜久次 (中町)
佐藤文夫 (上毛新聞)
桑原健次郎 (本会総務)

の四名が相集い、宮前氏の好意による自動車によって、前橋市三河町一一丁目一九ノ三七、浄土宗正幸寺を訪れた。

来意を告げると、住職滝沢霊秀師は殊の外喜ばれ、本堂に招じ入れて色々とお話をされるのであった。

この正幸寺は戦災による被害のため、堂宇こそ小さいが寺域、墓所等を見るとき、仲々の古刹であり、由緒もただならざるものを感じる。住職も口こそ出されないが、かっての救世主高須隼人正の墓に対して、その後彼の恩恵に蘇生の思いをした利根、吾妻の人達の子孫が、殆んど顧みる者とてない実状にさだめて索漢の念を抱いておられたことと拝察する。それかあらぬか私達の訪問を心より迎えるのであった。

小憩の後、そぼ降る雨の中を高須家墓地に案内される。本堂左手墓域のほぼ中心の位置に同家歴代の墓が整然と並んでいた。

高須隼人は、忠挙より数えて四代目の忠恭が元文五年夏(一七四〇)播州姫路に移封されるのに伴い同道し、同年九月八日大阪で逝去された。

遺骸は前記正幸寺に葬られ、その墓は

正面 誠体院殿元挙忠山義沾居士
右側 元文五庚申
左側 九月八日
裏面 於播州逝去 高須隼人

と刻してある。

以上が従来における定説として取扱われていたが、今現地に来て住職のお話を伺うとこれが全然異なっている。住職は先年前橋市において徹底調査の結果従前の説とは異なる点を確め、その顚末は「前橋市史」に詳説してあるので間違いないと断言される。

・「前橋市史」第二巻二七四頁
・みやま文庫「群馬の墓めぐり」

市部篇 九頁

A……従来高須隼人正の墓とされていた(誠体院殿)

B……調査の結果、これこそ隼人の墓という(義崇院殿)

新説による墓には(一七一三)正徳三癸巳稔義崇院鎮挙寔天居士覚霊十月七日とある。

従来隼人正の墓と称せられたものいは摂州云々とか高須隼人とかの文字が見られるのでこれをもって本人の墓というのも当然であり説得力も強い。

しかし現在は正面の墓こそ隼人正の墓として間違いない。

雨はやむこともなく降りつづけるが、今こうして親しく墓参した心境は何か晴々としたものを感じる。

思い過ごしかも知れぬが滝沢住職のお顔にも何かほのぼのとしたものが漂っていたように見受けられた。隼人正歿してここに二百六十九年、時の流れと共に旧沼田藩領は激しい変貌を見せた。しかし真田没落直後のあの貞亭の適正なる検地なかりせば一体どの様な状態が生じたろう。土地の問題農民の生命線であること思う時、隼人正の民意を尊重した公平無私、しかも綿密正確の測量実施がこの地の発展の基盤作りに大きく貢献したことを痛感する。

貞享の検地後五十八年たった延享二年、吾妻の農民の残した文書、及び百年後利根東入りの農民の文書の中に「酒井河内守様の御係による御検地によって、村柄相応の御取立となったため、離散した農民も立帰り安心して家業をはげむようになりました。誠に有難き仕合わせと存じ奉ります………。」の語句が見える。一世紀を経た後までもその遺徳を讃える農民の心情の底には、高須隼人正を偲ぶ感謝の念が脈々と生きている。

かくして領主こそないが旧沼田藩領は代官政治によって着々と新生の一歩を踏みだして行くのであった。