アーカイブ: 2017
真田氏沼田藩 改易、一家離散
天和元年十一月二十二日(一六八一)は正に真田氏にとって魔の日であった。 この日老中より「伊賀守儀兼々…
昭和55年当時の沼田公園
沼田旧藩主久米民之助氏は、かつての倉内城址が、私有地に分割され荒廃の極に達している状態を嘆き、これを…
沼田城址(沼田公園)沼田の城鐘と鐘楼の由来
城鐘 真田氏二代沼田城主河内守信吉が、領民の心を清め国家の安全を祈って、寛永十一年(一六三四)七月城…
真田氏沼田藩〜改易の背景
真田氏改易の直接原因は、伊賀守の失政にあったことは否めないであろうが、ここにいたるまでの経路について…
沼田藩真田氏〜破局の渕に近づく
真田五代伊賀守信澄は、江戸両国橋かけ替え用の材木を請負ったものの、色々の事情で約束の納入期日にどうし…
沼田藩 伊賀守信澄の城主としての行跡(4)
信澄の暴政は必ずしも信澄自身から出たものではなく、側近の奸臣等によって敢えてなされた事柄もあろう。し…
伊賀守信澄の城主としての行跡(3)
五代伊賀守が襲封したときの沼田藩の表高は三万石といわれているが、実は四代信政の時代、この領主は「開発…
真田伊賀守信澄の城主としての行跡(2)
彼等奸臣共にして見れば、決して私腹を肥やすためとか、ある陰謀を企てたとかいうわけでもなく、唯先見の明…
沼田藩 真田伊賀守信澄の城主としての行跡(1)
伊賀守信澄は、幼きころは喜内と称し、後に兵吉と改め、更には成人して城主となったころは信澄となる。つい…