真田信政、松代の領主となる

初代沼田城主となり、次には父昌幸の後を継いで上田城二代目の城主となり、更に松代へ移封を命じられ初代松代城主となった信幸も、すでによわい九十一才、多年にわたる心労に、いささか疲労のかげが濃くなった。

よって後事を考えここに勇断を下し、真田家万代の礎を固くしようと次の処置をとるのであった。

・松代十万石は、現在沼田の城において、着々と実績をあげている次男信政に相続させる。

・信政去つたあとの沼田城は、今は亡き長男信吉の子、兵吉に譲る。これは先年、信吉他界の節、継承問題が起きた時の公約履行になる。(詳細は第九号に記載)

・自分は松代城北方約四キロの川中島地先に隠居する。

以上のように決断した信幸は、早速幕府にこの旨を申し出すのであった。

その節のエピソードとして、将軍家が「信幸は、天下の飾りであるから、隠居は許し難いが、稀に見る高齢のため、特別に認めよう。」といったという。この一事をもってもいかに将軍の信頼が厚かったか察せられる。

やっと念願かなった信幸が隠居所へ移るとき、上は重臣から下は足軽にいたるまで別れを惜み、共に隠居所へ従うことを望んだというから、城主としてもいかに部下の信頼が篤かったかがわかる。

時に明暦二年(一六五六)のことである。翌三年七月二十七日、沼田城主大内記信政は側近の家臣を引き連れて、十八年間住みなれた沼田をあとにして松代入りをした。

兵吉沼田城主となる

沼田二代城主河内守信吉の妾腹に生まれた兵吉は、三代熊之助死亡の際、当然四代目を継承する立場ながら、当時年齢わずかに五才であったため、祖父信幸の裁断によって母と共に月夜野小川城址に部屋住みを申し渡され、四代目城主には伯父の信政が就任した。

それ以後、月夜野に住んでいた兵吉母子は、一日も早く沼田城主となれる日を千秋の思いで待っていた。母は近在近郷の神社に「兵吉成人のあかつきには何とぞ沼田城主になれますように………。」と祈願に明け暮れていた。

祖父信幸も、兵吉が成人した場合、立派な主君となるようにと、名ある家臣を博育の役に当てさせた。

正保四年(一六四七)、兵吉も十四才となったので、その年の六月十五日に元服して、従五位下伊賀守に任じ、名も「信澄」と改めた。

こうなると母親としても、家臣としても信幸の約束通り、一日も早く城主実現を願うことは当然である。

一方城主信政は、そんなことはよそに、沼田統治に懸命となっており、いっこうに信澄の焦慮など意に介していない。一体いつになったら城主の引き継ぎが行われるのか、遂にいたたまれなくなった月夜野一派は、家臣のうち、特に松代の信幸の信任あつい三人(西久伊兵衛、横谷勘十郎、鎌原庄左エ門)を遠く松代にある信幸に城主実現の運動をするために派遣する一幕も起ってきた。

そうこうするうち信澄は二十才となったので、承応二年(一六五三)に土佐高知の城主や山内忠豊の女と結婚し、明暦元年(一六五五)三月に長男仙千代(後の信就)が生れた。

こうして世継までもうけ、年も二十二才になったのに、いまだ沼田城主の夢は実現しない。

今までは兵吉が年若いため、母をはじめとし側近の連中が気をもんでいたが、今は一人前に成人した信澄自身も重大な問題として考えるようになった。

そんなとき翌年の明暦二年に松代の信幸隠居が打ち出され、それに伴って宿望の沼田城主継承が実現することになった。思えば月夜野へ部屋住を申し渡されてから十八年という長年月を経ている。その間一日として忘れることのできなかった沼田城主の夢が今かなったのである。

翌三年六月十七日、信澄の家臣は沼田城へ赴き、前主大内記信政の家臣と城受渡しの打合せをすませ、七月二十七日松代へ旅立った信政を送って九月二十五日宿願の沼田城主として入城することに決定した。

その日、信澄は一族郎党を引き連れ、生母お通の方共々、意気揚々と長蛇の行列を組ん月夜野を出発した。

城主となった翌年、即ち明暦四年五月、二十四才の春を迎えた伊賀守信澄は城主として初めての新年の諸儀式をすませるや、待ちかねたように早くも正月十一日から城郭の大修理に取りかかった。

多年の憂憤が一挙に爆発したような勢いで着手した城の工事は以外にも難工事で、その労役を課せられた百姓達の間に早くも「前の殿様はよかったが、今度の殿様は年が若いだけあってどうもすべてが派手で、弱ったものだ。この分で行くと先行きが思いやられるぞ。」の声がささやかれるのであった。

松代新城主信政死す

明暦四年ーーーーーーーこの年は沼田においては新城主伊賀守信澄統治第一年目の年であるが、一方の松代ではとんでもないことが起った。

それというのは遂一年前、新しく城主となった信政の死亡という出来事である。

信幸という人は、全く家族的には不幸の人である。去る寛政十一年(一六三四)に長男信吉に先立たれ、それより二十四年後の明暦四年(一六五八)には、次男の信政を失う。

おのれ自身も九十三才という高齢で多年の懸案であった隠居の事もやっと果した現在、ほっと息をつく間もなくこの悲報に接しておそらく足元が崩れるような思いであったろう。まさかこの年十月におのれ自身も死出の旅路につくとは神ならぬ身の知る由もなかった。